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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

J ・ブレイクソン監督「アリス・クリードの失踪」(★★)

2011-08-11 09:32:28 | 映画
監督 J ・ブレイクソン 出演 ジェマ・アータートン、エディ・マーサン、マーティン・コムストン

 ふたりの男が何もしゃべらず、車を奪い、大工道具をあれこれ買い込み、部屋を改造し、女を誘拐してくる。--この前半は、とてもおもしろい。特に説明があるわけではないのだが、部屋の内側に防音素材を張り巡らしたりする手順が、なんとういか、はじめてではなく何度も何度もやっているような「熟練」の領域に達している。それが、まあ、嘘っぽいといえば嘘っぽいのだけれど、スピーディーでリズムがいい。映像もすっきりしている。来ていた服を焼いて処分し、「目撃情報」を消してゆくところなど、そうか、こういうことって犯人しか知り得ない「情報」だねえ、と思い感心する。
 そして。
 誘拐--やってみたい。女を監禁し、身代金を要求してみたい、と思ってしまうねえ。私って、悪人?
 特に。
 ベッドに女を縛り付けて(両手に手錠、両足はロープで、女性を「大」の字に縛る)、そのあと服を脱がして全裸にし……それからねえ、監禁用にジャージーを着せるんだけれど、この手際が見事。服を脱がせるときはハサミもつかってだれでもがするようなことをするんだけれど、パンティーをはかせ、ジャージーを着せてゆく手際がほんとうに見事。何回、誘拐した? 何回、こういうことをやっている? プロだねえ。プロの仕事は美しいねえ、と感心してしまうのだ。
 でもねえ。映画は、ここまで。
 3人だけの「密室劇」なのだが、だんだん破綻してくる。「映画」ではなく「芝居」になってくる。誘拐された女は誘拐犯(若い男)の元の恋人。そして、犯人の二人は、実はゲイ。若い男は、男も女ともセックスをする。そこから愛と裏切りがからみあい、ストーリーが、だんだん荒っぽくなる。
 「芝居」の場合、目の前に役者の「肉体」があり、観客の想像力はいつでもその「肉体」に縛られているから(その肉体を通してしか、なにごとも想像しないから)、多少、ストーリーが荒っぽくなっても、引きずり込まれてゆくんだけれど。
 「映画」はだめ。いい加減さが目立ってしまう。
 相手の言っていることがほんとうかどうか知るために、「眼をみろ(眼を見て話せ)」とよく言うけれど、そのときアップになる顔なんか--なんといえばいいのかなあ、もう「常套句」。どんなふうにがんばっても「演技」にしかみえない。「映画」自体が虚構だから(演技だから)、そのなかでもう一度「演技」をしたって、ぜんぜんおもしろくない。「緊迫感」がない。
 (この点では、「スーパー8」の子供たちの「映画」のなかの「芝居」は巧かったなあ。特にリハーサルのシーンなんか、引き込まれてしまう。「芝居」なのに、「芝居」というのは役者の「過去」を暴き出す--「存在感」が勝負になる、ということを「証明」するということを、ちゃんと見せていた。)
 唯一、おもしろいのは薬莢を見つけて、それを隠そうとするシーン。トイレに流そうとするが、流れない。で、若い男は、便器に手を突っ込んで薬莢を拾い上げ、それを飲み込む--このシーンには「台詞」がないので、映像に緊迫感が出る。若い男の「あせり」がそのまま映像になる。若い男が「顔」で演技するのはもちろんだが、このとき「薬莢」は便器の底で、やはり「演技」しているのだ。カメラが「演技」をさせているのだ。
 これはいいなあ。便器。水。薬莢。流しても流しても流れない。紙だけが流れる。こういうことばを語らないものたちが「演技」をすると、映画は格段におもしろくなるのだ。思い返せば、冒頭の部屋を改造するシーンなど、電動ネジ回しや防音シート、ベッドの中板など、それぞれが「演技」しているのだ。役者はそれに手を添えているだけなのだ。すばらしい映画は、いつでもことばのないものたちの「演技」がスクリーンに広がるときに生まれる。

 最初は90点、その後、どんどん点数が下がり、最後は0点で終わる映画です。

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