詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

長田弘『最後の詩集』(7)

2015-07-06 11:18:25 | 長田弘「最後の詩集」
長田弘『最後の詩集』(7)(みすず書房、2015年07月01日発行)

 「朝の習慣」の前半。

目を上げると、もうちがう。
空に、ついさっきの雲がない。
おおきな雲が一つ、ゆるやかに
東に移動してゆくようだったのが、
いつのまにか、空の畑に、
雲の畝がいくつもつづいていた。
微かな風の音が、空を渡ってゆく。
ついさっきからいままで、
どれくらいの時が過ぎたのか。
たぶん、ほんの一瞬にすぎないのに、
その一瞬が、永遠などよりも
ずっと長い時間のように感じられる。

 「一瞬」と「永遠」の対比。「一瞬」がもし「永遠」よりも長いとしたら、どうしてだろう。きっと「一瞬」が充実しているからだ。「一瞬」が充実するとは、どういうことだろうか。長田なら、「一瞬」をことばであらわすことができたとき、それは充実するというだろう。
 この詩では、そのことを実践している。「一瞬」のあいだに何があったか。雲が動いていった。それをていねいに描写している。描写のなかには、たとえば「雲の畝」というような「比喩」が含まれる。「比喩」というのは、これまで読んできた詩のつづきでいうと「発見した」ことである。新しいものが、そこにつけくわえられている。世界の新しい見方、雲が並んでいる様子を「畝」ととらえる見方が新しい。「永遠」ということばは何か「普遍」を感じさせる。「普遍」は「不変」であるのだが、それは「新しい」ことが「不変=普遍」になるということ。
 「あ、あれは雲の畝か」と長田の詩を読んだ後、空を見上げて私は思うようになる。「雲の畝」は読者に共有されて「永遠」になる。
 この「一瞬」と「永遠」は、詩の最後の方で、次のように言い直される。

一刻を失うことなく、一日を
生きられたら、それでいい。

 「一瞬」を充実させる、ことばにする。そうやって一日を生きるならば、「一瞬」も「一日」も「永遠」になる。
 この「永遠」をまた次のようにも言い直している。

立ちどまり、空を見上げ、立ちつくす。
あの欅の林の梢の先にきらきら光る、
日の光が、今日に遺されている
神々の時代の、うつくしい真実だ。

 「うつくしい真実」が「永遠」である。そのことばの直前の「神々の時代の」というのは、実は、詩のなかほどにあるのだが、それはあとから触れる。
 この詩行では、「真実」と「永遠」に触れながら、「立ちどまり」「立ちつくす」と書いている部分が印象に残る。「立つ」という「動詞」を「一瞬」と置き換えてみる。「一瞬」を「一瞬」のまま、そこに「とめる」。そしてその「一瞬」を「つくす」。完全に使い果たす。燃焼させる。そうすると、その「一瞬」が「一瞬」を超えて「永遠」になる。そういう「一瞬」にするために、長田は「立ちどまる」。そして見たものを「ことば」する。「ことば」のなかに「世界」を「満たす」、「世界」を「ことばでつくす」。そういうことを実践している。
 「神々の時代」と「時間」については、詩のなかほどに書かれている。

かつて世界が神々のものだった時代、
希望は、悪しき精霊のもので、
人に、不必要な苦痛を募らせる、
危険な激情のことだった。
未来も、そうだ。意志によって
達成されるべき目的が未来だなんて、
神々の時代が去ってからの
戯言にすぎない。未来を騙るな。

 この行は「冬の金木犀」を思い起こさせる。「冬の金木犀」には「未来は達成ではない。」という一行があった。「目的を達成することが未来の仕事ではない」、「いま/一瞬」を「未来の目的」のためにつかうな、ということだろう。
 「いま」という「一瞬」を充実させるためにこそ、人は生きなければならない。「充実」ということばは「冬の金木犀」のなかでは「ひたすら緑の充実をいきる、」という一行の中にあった。
 詩を、こんなふうに重ね合わせて読むと、「冬の金木犀」の最後の一行、

行為じゃない。生の自由は存在なんだと。

 の「自由」にこめた長田の祈りがわかる。「いま/一瞬」を充実させる。「目的(未来)」から「自由」に生きる。ひたすら「一瞬」をことばにする。そのとき人間は「自由」な「存在」になる。
 「永遠」は「自由」でもある。

最後の詩集
クリエーター情報なし
みすず書房

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