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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

長田弘『最後の詩集』(8)

2015-07-07 08:32:45 | 長田弘「最後の詩集」
長田弘『最後の詩集』(8)(みすず書房、2015年07月01日発行)

 「アッティカの少女の墓」。『或るアッティカの少女の墓』という本を読み、「もう一人の自分がそこにいる」と感じて書いた作品である。

死が遺すものは、何であるのか。

 という一行がある。
 あとがきによれば「春風新聞二〇一四年春夏号」が初出。長田が亡くなったいま思うと、死を意識しながら書いていた作品なのかもしれない。「少女の/日頃愛した普段の品と思われる/簡素な副葬品は、一つとして/その死を、暗鬱なものと伝えないという。」とも書かれている。その少女のような死、その少女の「副葬品」のような作品、暗鬱なものを伝えないことばを書き残したいと長田は願っていたのだろう。
 この詩のなかで、長田は、「悼む」という行為を定義している。

死者の身近に在って、死者がいつまでも
人間らしい存在であれとねがうことだった。

 「死者が/人間らしい存在」であるということは、「生きつづける」ということだろう。「生きている」ときと同じように向き合う。それが「悼む」。
 それをさらに言い直して、

死のなかでなお生きつづける親身な精霊。
死者は、時を忘れて生きる存在にほかならない。

 とつづける。生き続けるのは「精霊」。「肉体」は死んでも「精霊」が「生きる」。その「精霊」は「時を忘れて生きる」。この「忘れて」は「超えて」である。
 最初に引用した行にもどって言い直すと、死が遺すものは「精霊」である。「精霊」は生き続ける。「精霊」は「時を超える」ということになる。
 そうした「精霊」を長田は遺したいと願った。
 私は「精霊」を「ことば(詩)」と置き換えて読みたい。「ことば」を読むと、ことばのなかに生き続けている長田を感じる。詩のことばは「時を忘れて(超えて)生きる存在にほかならない」と思う。
 たとえば、書き出しの

葉桜の季節がくると、
ハナミズキの枝々の先に
幼い葉たちが群れて、揺れながら、
柔らかな日の光をつかんで、
いっせいに、萼(がく)を開きはじめる。

 の透明な描写。特に、「つかむ」「開く」という反対の動き(手を想定すると、つかむ手は閉じる、手を開くと放すということになる)が交錯する緊張感に満ちた部分に、「一瞬」を「永遠」にかえる力を感じる。「充実」した力を感じる。
 さらに最後の方の、

四十雀のはげしい啼き声に、目を上げると、
目の前に直立するアケボノスギの、
ながく孤独な裸木にすぎなかったのに、
いま、枝先の新芽の閃くようなうつくしさ。

 ここにも「ながく(過去の長い時間)」と「いま(瞬間)」の対比があり、その「差(違い?)」を超えて、ことばが動いているのを感じる。「時間」が凝縮し、「永遠」に結晶する。そして輝いているのを感じる。
 こうしたことばの力は「永遠」に生き続ける。そして、そのことばを読むとき、長田は生きている詩人として私の目の前にいる。
 長田は、力に満ちたことば(詩)を私たちに遺してくれたと感じる。「悼む」ために、私は長田の詩を読む。そして、感想を書く。生きている長田とことばを交わしたくて。

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