谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(17)(ナナロク社、2014年11月01日発行)
「もどかしい」は白いつるつるしたページに印刷されている。右ページはピンク色。このピンクは何だろう。ピンクの裏は庭を歩き回る鶏の群れ。ピンクの鶏冠があるかもしれないが、眼の悪い私にはよく見えない。この写真のなかのピンクが裏側から見られているというわけではないようだ。いままで見てきた写真とその裏側の関係は、ここではいったん断ち切られているように感じる。でも、その鶏の反対側にピンクがある。壁にはられた「春」という文字。正月の飾りだろうか。その「春」はピンクの紙に書かれている。「もどかしい」と向き合っているピンクは、写真を一枚通り越して、このピンクと向き合っているのだろうか。
なんだか、じれったい。それこそ「もどかしい」。離れたところにある何かと呼応している。そのときの、呼応しているよりも「離れた」という感じが「もどかしい」。どうしていままでの写真と色のように「表裏一体」ではないんだろう。
と、思いながら読んだのか、あるいは詩を読んだからそんなことを思ったのか。いま書いたことと、詩の印象が行き来する。
二連目の最後の「タマシヒはもどかしい」は「私のタマシヒはもどかしがっている」ということだろうか。私のタマシヒは、あのひとのタマシヒと出会いたがっている。カラダが一体になったように、タマシヒも一体になりたがっている。でも、そのタマシヒがみつからないので一体になれずに、もどかしい気持ちでいる。
三連目の最終行「それなのに ある」は谷川の「思想(肉体)」があらわれた特徴的な行だと思う。
私は「魂はない(存在しない)」と考えているから、見つけられないだけではなく「コトバで考えても/見えてこない聞こえない」なら、それは存在しない。私の「論理(意味)」では、コトバで考えても/見えてこない聞こえない/「だから ない(存在しない)」になってしまう。
それなのに。
ふつうの(一般的な--と私は考えているが)「論理」を超えて、谷川は谷川自身の「論理」ではないものを「それなのに」ということばをつかって、そこに書いてしまう。「それなのに」は、それまで書いてきた「論理」を否定して、矛盾したことを書くための「論理の技法」である。
論理を論理の技法で否定する、その強さ。
本能、むきだしの欲望、こどものわがままのような力。
谷川が書いていることは「論理的」には納得できない。わからない。けれど、谷川がタマシヒはあると信じているということは、わかる。そう信じる谷川が、そこに「いる」ということが「わかる」。「いる」が「わかる」のは、そこに「肉体」があるからである。「肉体」が「ある」ことが「いる」ということ。「思想」は「ことば(論理)」にはならずに、無防備の、「肉体」そのものとして、そこに「ある」。
そのことを感じる。
「肉体」は「耳」となって風の音を聞き、「鼻」となって大気の匂いを嗅ぎ、「眼」となって逆光に輝く海を見た。それは「肉体」のなかで統合されて、「私」の内の世界と外の世界が溶け合う。その「肉体」がそこにあるのを感じる。
谷川は、そしてほかの読者は、別な考え方をするだろう。
「それなのに ある」と書くとき谷川が問題にしているのは「あのひと」のタマシヒであって谷川のタマシヒ、あるいは一般的なタマシヒのことではない。
詩の書き出しの「タマシヒがカラダを連れて」という行は、私(谷川)のタマシヒが谷川のカラダを連れて、という意味である。主語(主体)はあくまでタマシヒである。タマシヒがカラダ(肉体)を統合し、動かしている。
自分の「肉体」のなかにタマシヒを感じている。だから、それが他人(あのひと)のなかにも「ある」と信じる。林の中に入っていけば、それぞれの「肉体」に呼応して森のタマシヒがあらわれる。風の音になって、大気の匂いになって、タマシヒがあらわれる。タマシヒは何かを動かし、何かをつなぐエネルギー。それ自体は「不動」のものなので、見えない。
だから、もし、「あのひと」が林のなかで何を聞き、何を嗅いだか、そして目をあけて何を見たかを語ったなら、そこに「あのひとのタマシヒ」があらわれる。「あのひと」が私とは違った何かをカラダでつかみとり、それをことばにするなら、そのとき二人のタマシヒは触れあう。一つになる。そのとき、「あのひと」がまったく違ったことを語ったとしても……。
そう読むと、この詩は、切ない切ない恋の詩になる。「あのひと」に、何か言ってほしい、何でもいいから言ってほしいという「もどかしい」気持ちをあらわした詩になる。
それは「もどかしい」気持ちのなかで、あのひとのタマシヒに触れるということかもしれない。触れているということかもしれない。「ない」ではなく、「ある」と感じているのだから。
あ、これは私のことばではなく、谷川の書いた詩の最終行。
このあと、詩は空白の裏を経て、家を写した写真へとつづく。その家の屋根瓦はピンク。入り口を飾っている紙のしめ縄(のれん?)のようなものもピンク。ピンクは、いのりのときの心臓の色かも。
このピンクの補色になるのか、家の前には稲の葉っぱのみどり、屋根の向こうには木々のみどり、そしてページを戻って「春」の文字の裏にはみどりの水に浮かんだみどりの水草(このみどりの変化が美しい)。「春」の文字がはさんでいる窓枠のなかの壁も水に似通った、暗く沈んだ静かなみどり。
写真の中にある何かと、谷川のことばのなかにある何かを、結びつけたがっている私を、私は見つけてしまう。
「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、郵送無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
「もどかしい」は白いつるつるしたページに印刷されている。右ページはピンク色。このピンクは何だろう。ピンクの裏は庭を歩き回る鶏の群れ。ピンクの鶏冠があるかもしれないが、眼の悪い私にはよく見えない。この写真のなかのピンクが裏側から見られているというわけではないようだ。いままで見てきた写真とその裏側の関係は、ここではいったん断ち切られているように感じる。でも、その鶏の反対側にピンクがある。壁にはられた「春」という文字。正月の飾りだろうか。その「春」はピンクの紙に書かれている。「もどかしい」と向き合っているピンクは、写真を一枚通り越して、このピンクと向き合っているのだろうか。
なんだか、じれったい。それこそ「もどかしい」。離れたところにある何かと呼応している。そのときの、呼応しているよりも「離れた」という感じが「もどかしい」。どうしていままでの写真と色のように「表裏一体」ではないんだろう。
と、思いながら読んだのか、あるいは詩を読んだからそんなことを思ったのか。いま書いたことと、詩の印象が行き来する。
タマシヒがカラダを連れて
林の中へ入ってゆく
耳が風の音を聞く
鼻が大気の匂いを嗅ぐ
つむっていた眼を開けると
遠く逆光に輝く海がまぶしい
昨日はカラダごとあのひとに会った
耳も鼻も眼も肌も気持ちも
あのひとでいっぱい
でもタマシヒは
あのひとのタマシヒはどこ?
タマシヒはもどかしい
カラダでは探せなかった
ココロでは見つけられなかった
あのひとのタマシヒ
いくらコトバで考えても
見えてこない聞こえてこない
それなのに ある
タマシヒは不思議
二連目の最後の「タマシヒはもどかしい」は「私のタマシヒはもどかしがっている」ということだろうか。私のタマシヒは、あのひとのタマシヒと出会いたがっている。カラダが一体になったように、タマシヒも一体になりたがっている。でも、そのタマシヒがみつからないので一体になれずに、もどかしい気持ちでいる。
三連目の最終行「それなのに ある」は谷川の「思想(肉体)」があらわれた特徴的な行だと思う。
私は「魂はない(存在しない)」と考えているから、見つけられないだけではなく「コトバで考えても/見えてこない聞こえない」なら、それは存在しない。私の「論理(意味)」では、コトバで考えても/見えてこない聞こえない/「だから ない(存在しない)」になってしまう。
それなのに。
それなのに ある
ふつうの(一般的な--と私は考えているが)「論理」を超えて、谷川は谷川自身の「論理」ではないものを「それなのに」ということばをつかって、そこに書いてしまう。「それなのに」は、それまで書いてきた「論理」を否定して、矛盾したことを書くための「論理の技法」である。
論理を論理の技法で否定する、その強さ。
本能、むきだしの欲望、こどものわがままのような力。
谷川が書いていることは「論理的」には納得できない。わからない。けれど、谷川がタマシヒはあると信じているということは、わかる。そう信じる谷川が、そこに「いる」ということが「わかる」。「いる」が「わかる」のは、そこに「肉体」があるからである。「肉体」が「ある」ことが「いる」ということ。「思想」は「ことば(論理)」にはならずに、無防備の、「肉体」そのものとして、そこに「ある」。
そのことを感じる。
「肉体」は「耳」となって風の音を聞き、「鼻」となって大気の匂いを嗅ぎ、「眼」となって逆光に輝く海を見た。それは「肉体」のなかで統合されて、「私」の内の世界と外の世界が溶け合う。その「肉体」がそこにあるのを感じる。
谷川は、そしてほかの読者は、別な考え方をするだろう。
「それなのに ある」と書くとき谷川が問題にしているのは「あのひと」のタマシヒであって谷川のタマシヒ、あるいは一般的なタマシヒのことではない。
詩の書き出しの「タマシヒがカラダを連れて」という行は、私(谷川)のタマシヒが谷川のカラダを連れて、という意味である。主語(主体)はあくまでタマシヒである。タマシヒがカラダ(肉体)を統合し、動かしている。
自分の「肉体」のなかにタマシヒを感じている。だから、それが他人(あのひと)のなかにも「ある」と信じる。林の中に入っていけば、それぞれの「肉体」に呼応して森のタマシヒがあらわれる。風の音になって、大気の匂いになって、タマシヒがあらわれる。タマシヒは何かを動かし、何かをつなぐエネルギー。それ自体は「不動」のものなので、見えない。
だから、もし、「あのひと」が林のなかで何を聞き、何を嗅いだか、そして目をあけて何を見たかを語ったなら、そこに「あのひとのタマシヒ」があらわれる。「あのひと」が私とは違った何かをカラダでつかみとり、それをことばにするなら、そのとき二人のタマシヒは触れあう。一つになる。そのとき、「あのひと」がまったく違ったことを語ったとしても……。
そう読むと、この詩は、切ない切ない恋の詩になる。「あのひと」に、何か言ってほしい、何でもいいから言ってほしいという「もどかしい」気持ちをあらわした詩になる。
それは「もどかしい」気持ちのなかで、あのひとのタマシヒに触れるということかもしれない。触れているということかもしれない。「ない」ではなく、「ある」と感じているのだから。
タマシヒは不思議
あ、これは私のことばではなく、谷川の書いた詩の最終行。
このあと、詩は空白の裏を経て、家を写した写真へとつづく。その家の屋根瓦はピンク。入り口を飾っている紙のしめ縄(のれん?)のようなものもピンク。ピンクは、いのりのときの心臓の色かも。
このピンクの補色になるのか、家の前には稲の葉っぱのみどり、屋根の向こうには木々のみどり、そしてページを戻って「春」の文字の裏にはみどりの水に浮かんだみどりの水草(このみどりの変化が美しい)。「春」の文字がはさんでいる窓枠のなかの壁も水に似通った、暗く沈んだ静かなみどり。
写真の中にある何かと、谷川のことばのなかにある何かを、結びつけたがっている私を、私は見つけてしまう。
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ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。