この映画はアクション映画のはずである。ヴィンセント・ギャロが米軍から逃げる。目的地はわからない。途中で殺しもやる。ただ生きるために、そうする。せりふは一切なく、ただ肉体だけで演技するアクション映画--。
しかし、私は「アクション」を感じなかった。
私がアクションと感じたのは、ヴィンセント・ギャロに襲われる母親である。自転車でどこかへ向かう途中、道端で乳児に乳を飲ませる。その瞬間、ヴィンセント・ギャロに襲われ、おっぱいにむしゃぶりつかれ、母乳を飲まれ、気絶する。襲いかかるヴィンセント・ギャロと一体の動きなのだけれど、そこには確かに人間の「動き」がある。動くことでしか伝えられない何かがある。
釣った魚を奪われ、何をするんだと怒りながらも動かない男にも「動き」がある。
ヴィンセント・ギャロが赤い木の実を摘んでたべるとき、木の向こう側でみている女。その動かない肉体にも「動き」がある。
ラストシーン。ヴィンセント・ギャロに馬を与え見送る女。その動かない演技にも「動き」がある。
不思議なことだが、動かない方が「アクション」として印象に残る。「アクション」とは「肉体の存在感」のことかもしれない。そこに「肉体」があり、その「肉体」が「いま」という時間を動かす。「肉体」が動かなくても「時間」を動かせば、それがアクションなのだ。
母親が襲われ、おっぱいを吸われる。反対側のおっぱいでは赤ん坊が泣いている。えっ、どうなるの? 大人の男の強い力でおっぱいが吸われる--その口のなかへ流れていく母乳。男が口を離したとき、口からこぼれる母乳の白。なんだかわからないが、それからどうなる? はらはらどきどきする。その時間の長さというか、短さというか--わけのわからない充実感。
女が男に馬を与え、見送り、歩きはじめる。そのときも、ほら、もしいま夫が帰って来たら、とか、もしまた米軍が戻ってきたら、とか、思ってしまう。時間が静かに動く。時間だけしか動かない。
逆の視点からも見つめなおすことができる。
私は、ヴィンセント・ギャロの演技には引き込まれなかったが、アフガンの山岳地帯の不思議な迷路、洞窟には共感してしまった。人間が動くのではなく、荒れた岩山が動き、人間を隠す、助ける。
またヴィンセント・ギャロが逃げ回る雪の原野、山--その雪にも共感した。山や雪は動かない。動かずに、そこにいる人間(ヴィンセント・ギャロ)を動かす。その人間を動かす力にアクションを感じた。ヴィンセント・ギャロは自在に逃げているように見えるが、そうではなく逃げる方向を自然に決められている。そこにはたとえば空腹だとかの問題がからんでくるのだが、雪と山は、ヴィンセント・ギャロを守らず、ただ男を「人間」のそばへそばへと動かす。
このヴィンセント・ギャロを動かしてしまう自然の力にヴィンセント・ギャロはうまく向き合えていない。つまり、動かずに、耐えることで、雪を動かしてしまうという「肉体」になりきっていない。
--そんなことを求めるのはむりなのかもしれないが、私は、どうも何かが違うなあと思ってしまうのである。
イェジー・スコリモフスキーの作品を私は知らないが、前作の「ハンナと過ごした4日間」では主人公の動きは限られていた。だからこそ、その一つ一つの動きに「アクション」を感じた。ベッドの下に隠れ、動かない--そういう「動かない」ときに、激しく流れる時間を感じ、男がその時間を感じていることを肉体を通して感じる。つまり共感するということがある。
アクションは、複雑だ。
この映画はアクション映画のはずである。ヴィンセント・ギャロが米軍から逃げる。目的地はわからない。途中で殺しもやる。ただ生きるために、そうする。せりふは一切なく、ただ肉体だけで演技するアクション映画--。
しかし、私は「アクション」を感じなかった。
私がアクションと感じたのは、ヴィンセント・ギャロに襲われる母親である。自転車でどこかへ向かう途中、道端で乳児に乳を飲ませる。その瞬間、ヴィンセント・ギャロに襲われ、おっぱいにむしゃぶりつかれ、母乳を飲まれ、気絶する。襲いかかるヴィンセント・ギャロと一体の動きなのだけれど、そこには確かに人間の「動き」がある。動くことでしか伝えられない何かがある。
釣った魚を奪われ、何をするんだと怒りながらも動かない男にも「動き」がある。
ヴィンセント・ギャロが赤い木の実を摘んでたべるとき、木の向こう側でみている女。その動かない肉体にも「動き」がある。
ラストシーン。ヴィンセント・ギャロに馬を与え見送る女。その動かない演技にも「動き」がある。
不思議なことだが、動かない方が「アクション」として印象に残る。「アクション」とは「肉体の存在感」のことかもしれない。そこに「肉体」があり、その「肉体」が「いま」という時間を動かす。「肉体」が動かなくても「時間」を動かせば、それがアクションなのだ。
母親が襲われ、おっぱいを吸われる。反対側のおっぱいでは赤ん坊が泣いている。えっ、どうなるの? 大人の男の強い力でおっぱいが吸われる--その口のなかへ流れていく母乳。男が口を離したとき、口からこぼれる母乳の白。なんだかわからないが、それからどうなる? はらはらどきどきする。その時間の長さというか、短さというか--わけのわからない充実感。
女が男に馬を与え、見送り、歩きはじめる。そのときも、ほら、もしいま夫が帰って来たら、とか、もしまた米軍が戻ってきたら、とか、思ってしまう。時間が静かに動く。時間だけしか動かない。
逆の視点からも見つめなおすことができる。
私は、ヴィンセント・ギャロの演技には引き込まれなかったが、アフガンの山岳地帯の不思議な迷路、洞窟には共感してしまった。人間が動くのではなく、荒れた岩山が動き、人間を隠す、助ける。
またヴィンセント・ギャロが逃げ回る雪の原野、山--その雪にも共感した。山や雪は動かない。動かずに、そこにいる人間(ヴィンセント・ギャロ)を動かす。その人間を動かす力にアクションを感じた。ヴィンセント・ギャロは自在に逃げているように見えるが、そうではなく逃げる方向を自然に決められている。そこにはたとえば空腹だとかの問題がからんでくるのだが、雪と山は、ヴィンセント・ギャロを守らず、ただ男を「人間」のそばへそばへと動かす。
このヴィンセント・ギャロを動かしてしまう自然の力にヴィンセント・ギャロはうまく向き合えていない。つまり、動かずに、耐えることで、雪を動かしてしまうという「肉体」になりきっていない。
--そんなことを求めるのはむりなのかもしれないが、私は、どうも何かが違うなあと思ってしまうのである。
イェジー・スコリモフスキーの作品を私は知らないが、前作の「ハンナと過ごした4日間」では主人公の動きは限られていた。だからこそ、その一つ一つの動きに「アクション」を感じた。ベッドの下に隠れ、動かない--そういう「動かない」ときに、激しく流れる時間を感じ、男がその時間を感じていることを肉体を通して感じる。つまり共感するということがある。
アクションは、複雑だ。
しかし、私は「アクション」を感じなかった。
私がアクションと感じたのは、ヴィンセント・ギャロに襲われる母親である。自転車でどこかへ向かう途中、道端で乳児に乳を飲ませる。その瞬間、ヴィンセント・ギャロに襲われ、おっぱいにむしゃぶりつかれ、母乳を飲まれ、気絶する。襲いかかるヴィンセント・ギャロと一体の動きなのだけれど、そこには確かに人間の「動き」がある。動くことでしか伝えられない何かがある。
釣った魚を奪われ、何をするんだと怒りながらも動かない男にも「動き」がある。
ヴィンセント・ギャロが赤い木の実を摘んでたべるとき、木の向こう側でみている女。その動かない肉体にも「動き」がある。
ラストシーン。ヴィンセント・ギャロに馬を与え見送る女。その動かない演技にも「動き」がある。
不思議なことだが、動かない方が「アクション」として印象に残る。「アクション」とは「肉体の存在感」のことかもしれない。そこに「肉体」があり、その「肉体」が「いま」という時間を動かす。「肉体」が動かなくても「時間」を動かせば、それがアクションなのだ。
母親が襲われ、おっぱいを吸われる。反対側のおっぱいでは赤ん坊が泣いている。えっ、どうなるの? 大人の男の強い力でおっぱいが吸われる--その口のなかへ流れていく母乳。男が口を離したとき、口からこぼれる母乳の白。なんだかわからないが、それからどうなる? はらはらどきどきする。その時間の長さというか、短さというか--わけのわからない充実感。
女が男に馬を与え、見送り、歩きはじめる。そのときも、ほら、もしいま夫が帰って来たら、とか、もしまた米軍が戻ってきたら、とか、思ってしまう。時間が静かに動く。時間だけしか動かない。
逆の視点からも見つめなおすことができる。
私は、ヴィンセント・ギャロの演技には引き込まれなかったが、アフガンの山岳地帯の不思議な迷路、洞窟には共感してしまった。人間が動くのではなく、荒れた岩山が動き、人間を隠す、助ける。
またヴィンセント・ギャロが逃げ回る雪の原野、山--その雪にも共感した。山や雪は動かない。動かずに、そこにいる人間(ヴィンセント・ギャロ)を動かす。その人間を動かす力にアクションを感じた。ヴィンセント・ギャロは自在に逃げているように見えるが、そうではなく逃げる方向を自然に決められている。そこにはたとえば空腹だとかの問題がからんでくるのだが、雪と山は、ヴィンセント・ギャロを守らず、ただ男を「人間」のそばへそばへと動かす。
このヴィンセント・ギャロを動かしてしまう自然の力にヴィンセント・ギャロはうまく向き合えていない。つまり、動かずに、耐えることで、雪を動かしてしまうという「肉体」になりきっていない。
--そんなことを求めるのはむりなのかもしれないが、私は、どうも何かが違うなあと思ってしまうのである。
イェジー・スコリモフスキーの作品を私は知らないが、前作の「ハンナと過ごした4日間」では主人公の動きは限られていた。だからこそ、その一つ一つの動きに「アクション」を感じた。ベッドの下に隠れ、動かない--そういう「動かない」ときに、激しく流れる時間を感じ、男がその時間を感じていることを肉体を通して感じる。つまり共感するということがある。
アクションは、複雑だ。
この映画はアクション映画のはずである。ヴィンセント・ギャロが米軍から逃げる。目的地はわからない。途中で殺しもやる。ただ生きるために、そうする。せりふは一切なく、ただ肉体だけで演技するアクション映画--。
しかし、私は「アクション」を感じなかった。
私がアクションと感じたのは、ヴィンセント・ギャロに襲われる母親である。自転車でどこかへ向かう途中、道端で乳児に乳を飲ませる。その瞬間、ヴィンセント・ギャロに襲われ、おっぱいにむしゃぶりつかれ、母乳を飲まれ、気絶する。襲いかかるヴィンセント・ギャロと一体の動きなのだけれど、そこには確かに人間の「動き」がある。動くことでしか伝えられない何かがある。
釣った魚を奪われ、何をするんだと怒りながらも動かない男にも「動き」がある。
ヴィンセント・ギャロが赤い木の実を摘んでたべるとき、木の向こう側でみている女。その動かない肉体にも「動き」がある。
ラストシーン。ヴィンセント・ギャロに馬を与え見送る女。その動かない演技にも「動き」がある。
不思議なことだが、動かない方が「アクション」として印象に残る。「アクション」とは「肉体の存在感」のことかもしれない。そこに「肉体」があり、その「肉体」が「いま」という時間を動かす。「肉体」が動かなくても「時間」を動かせば、それがアクションなのだ。
母親が襲われ、おっぱいを吸われる。反対側のおっぱいでは赤ん坊が泣いている。えっ、どうなるの? 大人の男の強い力でおっぱいが吸われる--その口のなかへ流れていく母乳。男が口を離したとき、口からこぼれる母乳の白。なんだかわからないが、それからどうなる? はらはらどきどきする。その時間の長さというか、短さというか--わけのわからない充実感。
女が男に馬を与え、見送り、歩きはじめる。そのときも、ほら、もしいま夫が帰って来たら、とか、もしまた米軍が戻ってきたら、とか、思ってしまう。時間が静かに動く。時間だけしか動かない。
逆の視点からも見つめなおすことができる。
私は、ヴィンセント・ギャロの演技には引き込まれなかったが、アフガンの山岳地帯の不思議な迷路、洞窟には共感してしまった。人間が動くのではなく、荒れた岩山が動き、人間を隠す、助ける。
またヴィンセント・ギャロが逃げ回る雪の原野、山--その雪にも共感した。山や雪は動かない。動かずに、そこにいる人間(ヴィンセント・ギャロ)を動かす。その人間を動かす力にアクションを感じた。ヴィンセント・ギャロは自在に逃げているように見えるが、そうではなく逃げる方向を自然に決められている。そこにはたとえば空腹だとかの問題がからんでくるのだが、雪と山は、ヴィンセント・ギャロを守らず、ただ男を「人間」のそばへそばへと動かす。
このヴィンセント・ギャロを動かしてしまう自然の力にヴィンセント・ギャロはうまく向き合えていない。つまり、動かずに、耐えることで、雪を動かしてしまうという「肉体」になりきっていない。
--そんなことを求めるのはむりなのかもしれないが、私は、どうも何かが違うなあと思ってしまうのである。
イェジー・スコリモフスキーの作品を私は知らないが、前作の「ハンナと過ごした4日間」では主人公の動きは限られていた。だからこそ、その一つ一つの動きに「アクション」を感じた。ベッドの下に隠れ、動かない--そういう「動かない」ときに、激しく流れる時間を感じ、男がその時間を感じていることを肉体を通して感じる。つまり共感するということがある。
アクションは、複雑だ。
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