詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

学問の自由という幻

2020-10-03 22:35:16 | 自民党憲法改正草案を読む
facebookの中沢けいさんのページで、読者の、こんなコメントを読んだ。

「学術会議のメンバーにならないと学問の自由は侵害されるのでしょうか?
学術会議のメンバーから外されたら自身の主張はできなくなるのでしょうか?
そもそも学術会議の存在意義はどこにあるのでしょうか?」

この反応は、まさに菅・加藤が期待した通りの反応だろう。
独裁は、いつでも「見えにくい」ところからはじまる。
その「見えにくさ」を利用したクーデター(中日新聞・大森記者のことば)がいま起きている。
もちろん、学問はいつでもどこでも、できる。何を学びたいかは自分で決定できる。その「価値」を決めるのは、個人である。
しかし、
そういう自由な活動に対して、権力が、この学問は学術会議の会員にはふさわしくない(会員に任命できない)と価値判断を押しつけるのが「学問の自由」への侵害になる。
多くの学者が討議し、重要だと認めているひとを、権力が根拠も示さずに任命を拒否したことが、学問の自由の侵害につながる。
だれが認めてくれなくても「学問」はできる。
けれど、この「学問」は推奨するけれど、この「学問」はだめ、と権力がいいつづければ、「学問」の世界はしだいに、権力のいう「学問」だけになっていく。
極端な話、自民党政権を批判する研究には研究費を出さないという(そういうことを研究している大学への助成はしない)ことが決定されれば、政権を批判する研究、政権と国民の闘争の歴史研究などは、しだいに少なくなる。
逆に、自民党政権の功績だけをとりあげる研究者(学者)にだけ予算を投入するようになれば、そういう研究だけになる。
そういうことが「学術会議」だけではなく(つまり、しっかりとした理念を持った学者の世界だけではなく)、義務教育の現場でも行われるようになったらどうなるか?
侵略戦争の事実は教えられず、原爆の悲惨さを語り継ぎ平和教育もないがしろにされる。
そういうことが起きるはず。
実際に、平和憲法について勉強会を開こうとしたら会場を貸してもらえないということが起きていたりする。
「学問の自由」は個人の問題だが(何を学ぶかは人それぞれの自由だが)、この世界にどれだけ「学問」があるか、それを個人が個人の力ですべて見つけ出していくことはできない。
だから「教育」も大切になる。「学問」と「教育」はセット。
単に、「学問の自由」は、高等な「学問」をしているだけの問題ではない。
それはじわじわと、国民の教育(学問)全部に及んでくる。
「学術会議の存在意義」は、いろいろな政策がほんとうに国民のためになるのか、ということを専門的な知識を踏まえて政権に助言するということあるだろう。
そのときの「助言」というのは、ときには「批判」を含む。
「批判」を含むからこそ、その「批判」が気に食わないという理由で、政権は「メンバー」を拒否する。
そういうことが、いま起きている。
これを個人の「学問の自由」と言い換えてはいけない。
政権の「好みの学者の押しつけ」が、「嫌いな学者の排除」という形で起きているのだ。
「学問の自由は一人で守れる」というような言い方は、菅・加藤の代弁にすぎない。

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