藤井貞和『美しい小弓を持って』(24)(思潮社、2017年07月31日発行)
「転轍--希望の終電」は、
と始まる。「さーい」「まーす」は「紫式部さーん」の「さーん」と同じもの。「意味」ではなく「音」が動いている。「音」の中にこそ「意味」があるという藤井の「肉体の嗜好」をあらわしていると思う。「肉体の嗜好」は「頭の思考」よりも優先する。「嗜好」は「思考」にかわる。「脳(頭)」というのは、「頭(脳)」に都合のいいように、すべてを整える。「嗜好」にすぎないものを「思考」と言い張り、論理化する。
で、それじゃあ、「さーい」「まーす」はどう論理化されているかというと。
とか、
とか、なんでもかんでもがつながっていく。つなげていく。それを可能にするのが「音」である。響きである。
途中に出てくる「ご詠歌」。私は、その実際を知らないので信者から叱られるかもしれないが、「ご詠歌」の「意味」を完全に理解し、歌っている人は少ないだろう。歌の内容よりも、歌うことによってひととつながるということの方が大事なのだろう。いっしょに歌えば、声が揃い、みんながひとつになる。ひとりで歌っているときでは、そのひとは声をとおしてそこにいないひととつながっている。ひとつになっている。そのためのものだろう。
そういう「一体感」のためには、「音」が節とリズムをもっている方がいい。節とリズムを作るのは声であり、肉体(発声器官)である。
「ご詠歌」を歌うひとは、声と音楽をとおして、「肉体」をひとつにする。「肉体」というのはけっしてひとつにならないもの。他人の肉体と私の肉体はいつでも別個のものだが、「声の肉体」が「ひとつ」になると、そこから錯覚が始まる。「肉体」がひとつになって、融合したという錯覚が生まれる。「同じ肉体を生きている」と錯覚する。このときの「同じ」は「肉体」を修飾しながら、同時に「生きている」という「動詞」の方へ重点を移していく。「同じように肉体をもつ人間(あるいは肉体というものを持つ同じ人間)」が「同じように生きていく」というように。
この「同じ」をうみだすのが「さーい」「まーす」「さーん」というリズムなのだ。響きなのだ。
でも、ほんとうに、そんなことを藤井は書いている?
違うかもしれないね。
「誤読だ」と怒るかもしれないなあ。
でも、「誤読」というのは強引なもの。
途中を端折って(すでに、ずいぶん端折っているのだが)、私はこう考えるのである。
「のんのさま、かんのんさま、鬼道のかわらけ、大軌のあやめ池、たらいにかげを映し」のことばの動き、「音」がうつくしいなあ。「か」の音の響きがおもしろいし、「あやめ池」は「菖蒲池」であると同時に「殺め池」でもあるんだろうなあ。
「転轍」ということばを手がかりにすれば、「音」のなかで「意味」が切り替わる。方向転換する。同じことばを、だれかが「誤読」する。
「誤読」こそが「他人」と「私」を「同じ人間」であるという「思想」を育てる。そして、「誤読」というのは「読む」という字をつかっているが、ことばの「発生」を考えると「誤聴(聞)」の方が基本なのだ。ことばは「文字」になるまえに「音」である。「音」が人を呼び寄せ、人をつなぎ、同時に「誤読」を育てる。
「さーい」「まーす」と語調をそろえると、そのとき「誤読の音楽」がハーモニーになる。藤井のことばはいつでも「うた」なのだ。
「転轍--希望の終電」は、
操車場を水田に、しないでくだ、さーい 田遊びを、中止し、まーす
と始まる。「さーい」「まーす」は「紫式部さーん」の「さーん」と同じもの。「意味」ではなく「音」が動いている。「音」の中にこそ「意味」があるという藤井の「肉体の嗜好」をあらわしていると思う。「肉体の嗜好」は「頭の思考」よりも優先する。「嗜好」は「思考」にかわる。「脳(頭)」というのは、「頭(脳)」に都合のいいように、すべてを整える。「嗜好」にすぎないものを「思考」と言い張り、論理化する。
で、それじゃあ、「さーい」「まーす」はどう論理化されているかというと。
あぜはぶっこわ、してよいでーす すさのーさん うまをさかはぎにし、まーす
なわしろにまきちらかした農薬のかわりに 馬からぶちのもようをはぎ取って
きれいに投げ入れてくだ、さーい 二枚の板をならべて、落書(らくしょ)に
とか、
それでも、それでもあなたはいけにえがほしいですかあ むすめさんのうでが地面のしたから
突き出され、突き出され、ごこうしゆいあみだ、ごこうしゆいあみだ、かくすため
かいづかの貝いちまいいちまい かぞえるご詠歌、でーす お大師さまが戸板に乗せられ
とか、なんでもかんでもがつながっていく。つなげていく。それを可能にするのが「音」である。響きである。
途中に出てくる「ご詠歌」。私は、その実際を知らないので信者から叱られるかもしれないが、「ご詠歌」の「意味」を完全に理解し、歌っている人は少ないだろう。歌の内容よりも、歌うことによってひととつながるということの方が大事なのだろう。いっしょに歌えば、声が揃い、みんながひとつになる。ひとりで歌っているときでは、そのひとは声をとおしてそこにいないひととつながっている。ひとつになっている。そのためのものだろう。
そういう「一体感」のためには、「音」が節とリズムをもっている方がいい。節とリズムを作るのは声であり、肉体(発声器官)である。
「ご詠歌」を歌うひとは、声と音楽をとおして、「肉体」をひとつにする。「肉体」というのはけっしてひとつにならないもの。他人の肉体と私の肉体はいつでも別個のものだが、「声の肉体」が「ひとつ」になると、そこから錯覚が始まる。「肉体」がひとつになって、融合したという錯覚が生まれる。「同じ肉体を生きている」と錯覚する。このときの「同じ」は「肉体」を修飾しながら、同時に「生きている」という「動詞」の方へ重点を移していく。「同じように肉体をもつ人間(あるいは肉体というものを持つ同じ人間)」が「同じように生きていく」というように。
この「同じ」をうみだすのが「さーい」「まーす」「さーん」というリズムなのだ。響きなのだ。
でも、ほんとうに、そんなことを藤井は書いている?
違うかもしれないね。
「誤読だ」と怒るかもしれないなあ。
でも、「誤読」というのは強引なもの。
途中を端折って(すでに、ずいぶん端折っているのだが)、私はこう考えるのである。
のんのさま、かんのんさま、鬼道のかわらけ、大軌のあやめ池、たらいにかげを映し、まーす
どこへゆけばよいのだろう 繰り返す転轍に、ゆくえを知らない終電は
あぜの消失点を走りつづけているみたいですね
「のんのさま、かんのんさま、鬼道のかわらけ、大軌のあやめ池、たらいにかげを映し」のことばの動き、「音」がうつくしいなあ。「か」の音の響きがおもしろいし、「あやめ池」は「菖蒲池」であると同時に「殺め池」でもあるんだろうなあ。
「転轍」ということばを手がかりにすれば、「音」のなかで「意味」が切り替わる。方向転換する。同じことばを、だれかが「誤読」する。
「誤読」こそが「他人」と「私」を「同じ人間」であるという「思想」を育てる。そして、「誤読」というのは「読む」という字をつかっているが、ことばの「発生」を考えると「誤聴(聞)」の方が基本なのだ。ことばは「文字」になるまえに「音」である。「音」が人を呼び寄せ、人をつなぎ、同時に「誤読」を育てる。
「さーい」「まーす」と語調をそろえると、そのとき「誤読の音楽」がハーモニーになる。藤井のことばはいつでも「うた」なのだ。
![]() | 詩を読む詩をつかむ |
クリエーター情報なし | |
思潮社 |