糸井茂莉『ノート/夜、波のように』(3)(書肆山田、2020年09月30日発行)
45ページに、突然、こんな文字が並ぶ。
そのとききみは夢の水を払いのけて、
フリオ・コルターサル『石蹴けり遊び』土岐恒二訳
これは糸井のことばではない。引用と注釈である。
75ページに類似のことが起きる。
私たちが稲妻に住まうとしたら、それこそは永遠の核心
ルネ・シャール
ことばは、「署名」があってもなくても、ことばである。「署名」がなくても、それはだれかのことばかもしれない。
高貝は、「署名」を「日本語の肉体(古典)」に返している。糸井は外国語経由でも存在する「文体」にことばを返している、ということかもしれない。別なことばで言い直すと、高貝はかすかな「ちがい」に密着することで、「おなじ」を遠いところから呼び戻すようにしてことばを動かす。糸井は「ちがう」を意識しながら、その「ちがい」のなかに存在する「おなじ」を追い求める。糸井が「ちがう」ということばを多く用いるのは、そのためである。
43ページの作品。
しろのふ、と書いて、シロノフという国を想い、雪の荒野に果てし
なく続く線路と白樺の林を想像するが、シロノフは人の、男の人の
名であるかもしれない。しろのふ、と書いて今、眠れないこの夜に
綴る白の譜を始めようとする。雪、紙、羽、花、雲、息、石、骨。
それぞれの固さと柔らかさが、夜の意識のただなかを浮遊しながら
落下し、それぞれの位置をきめようとすると、白と白の放つ強烈な
光りに私の譜はばらばらにほどける。シロノフの雪原を白い息を吐
いて行く人がいる。
ここには書かれていない「ちがう」がある。簡単に言い直せば、たとえば、「雪、紙、羽、花、雲、息、石、骨。」は「雪、ちがう、紙、ちがう、羽、ちがう、花、ちがう、雲、ちがう、息、ちがう、石、ちがう、骨。」なのである。そこに「共通するもの(おなじ)」があるとすれば、それは「白」というよりも「ちがう」という意識。「ちがう」とどれだけ否定しても「おなじ」何かを呼び寄せてしまう意識というものである。
それは、いったい、だれの「意識」か。だれの「肉体」か。つまり、だれが発したことば、だれの息を通り、声になったことばなのか。
これは特定することはできない。
いま、糸井がそのことばを発すれば、その瞬間「署名」は上書き更新されてしまう。詩は、そういうことを受け入れることばなのである。必要な人がいれば、その人のためにあることば。
フリオ・コルターサルもルネ・シャールも、糸井の「文体」をとおって動くならば、糸井のことばである。
引用した詩では、「しろのふ」は「シロノフ」という男になり、最後は「シロノフの雪原を白い息を吐いて行く人」になる。そのとき、その人(男)には「署名」すべき名前がない。もちろん、この断定は「ちがう」。否定するための「署名」を最後に登場する「人」はもっている。それはけっして書かれることはないことによって、「永遠」になる。
46ページ。
不穏な睡蓮の池をまえに、みずたまり、と言うと、泥のような、と
応え、地下茎はのびにのびて私たちの足元を掬う。水面に倒立する
まぼろしの像。反転して水に映るその淫らな内部。誰と回遊したか
忘れた池の、遠い夏の日。
43ページでは「書く」という行為が「ちがう」を呼び覚ましていた。ここでは「言う」という動詞が「ちがう」を呼び覚ます。「書く」も「言う」もテーマは「ことば」である。むしろ、ことばが「主語」であると言った方がいいだろう。「私(糸井)」が書く、言うのではなく、「ことば」そのものが「書き」「言う」のである。何を「書き」、何を「言う」か。
「ちがう」
そのひとことを「書き」「言う」のである。その「ちがう」という運動は糸井の「肉体/思想」になってしまっている。だから、しばしはそれは無意識に省略されてしまう。書かれていない「ちがう」の方が、書かれている「ちがう」よりも、もっと強いのだ。
この作品では「ちがう」は「応える」という動詞になって動き、それは「足元を掬う」。つまり、「私」を不安定にさせ、そこから「倒立する/反転する」という動きがはじまる。そして、それは「のびる」という運動、回遊するという運動であり、そのすべては「映る」ということもできる。
「雪、紙、羽、花、雲、息、石、骨。」は「ちがう」ということばではなく、43ページの動詞をつかって「雪は紙と言い、紙は羽と応え、羽は花へのび……」という具合に。それは固定されない。それは「もの」というよりも「像」そのものとして軽やかに動くのである。
その「像」は「誰」と回遊したか、「誰」が同伴者であったか。特定は「意味」がない。「誰」という「署名」も瞬間瞬間に「ちがう」と否定され、「無名」とし上書き更新される。
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