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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

リッツォス「証言B(1966)」より(20)中井久夫訳

2008-11-28 02:05:18 | リッツォス(中井久夫訳)
罪   リッツォス(中井久夫訳)

彼は帽子を取って出て行った。
彼女はランプの傍のテーブルを動かなかった。
彼の足音が遠くなった。彼女は明かりに手をかざした。「きれいよ」と言ってみた。
それから誰かに言い訳をするように
パンを台所に持って行き、
明かりを消した。
外には行き交う荷車と月。



 男と女がいさかいをする。男が出て行く。女が残される。その女が、自分を「きれいよ」慰める。男が言ってくれなかったことばを、自分で言う。
 この詩の最後がきれいだ。「荷車」は彼女の悲しみを知らない。「月」は彼女の悲しみを知っているかもしれない。けれども、彼女に対して声をかけることは絶対にない。「荷車」の御者が彼女になにかの拍子に声をかけることはあるかもしれないが、「月」は絶対にそういうことはしない。「荷車」(そして、御者)は無情である。男と同じである。「月」は非情である。その非情は無情さえも洗い流していく。その結果、なんの混じり気もない透明な孤独が残される。
 罪とは、そういう透明な孤独の別称かもしれない--そういう思いさえわいてくる詩である。

 この訳詩には(訳には)、以前触れた詩のように書き込みがある。中井はワープロで訳詩を残しているが、ときどき、そこに手書きの修正がある。この詩にも、その修正、推敲がある。
 3行目は、ワープロのもとの形では、

彼の足音が遠くなった。彼女は明かりに自分の手を見た。「きれいよ」と言ってみた。

 「自分の手を見た」が「手をかざした」にかわっている。「かざした」ということばのなかには「見る」は含まれていない。けれど、手をかざす(特に、ランプの明かりに手をかざす)ときは、その手を見ることになる。「見る」を別の動詞に置き換えている。ここが中井の訳のすばらしいところだ。
 動詞はいろいろな「動き」をもっている。手をかざす--それはたんに手を上げることではない。上げた手を「見る」という動きを含む。「見る」ということばを直接書かないとき、「見る」という動きが「頭」ではなく、「肉体」にかえっていく。ことばにならない領域、より人間の深い場所へとかえっていく。そこから、人間をとらえ直す。
 この人間の、深い部分でとらえることばが、月の非情と響きあう。月の明るい非情さは、「見る」という動詞よりも、「かざす」という動きをよりすばやく洗って、孤独を浮き彫りにする。
 このことばの選択が、とてもいい。

 4行目も、ワープロ原稿では「それから言い訳するように」と「誰かに」が含まれていなかった。「誰かに」はあとから挿入されたものである。この「誰かに」もとても詩に落ち着きを与えている。「誰かに」があるから、「荷車」(御者)がすーっと近付いてくる。誰でもいい。その不特定を浮き彫りにするのが「誰かに」なのである。そして、自分とは無縁である、無関係であることが浮き彫りにする孤独が、さらに「月」と響きあうのだ。
 中井の訳はほんとうに素敵だ。


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