森川雅美
「山越」(「あんど」8、2008年01月20日発行)
きのう読んだ三井葉子の文体が暴走しない文体ならば、きょう取り上げる森川の文体は暴走する文体である。ことばが暴走するとき、そこにもし意味があるとすれば「快感」という意味である。ただことばを暴走させることの快感。ことばのスピードに肉体がついて行けない。肉体では追いつけないスピードを味わうことである。もちろん頭も追いついては行けないのだけれど、肉体と違って頭というのはときどきアナログではなくデジタルである。簡単に言うと、肉体は移動するとき1センチ、1メートル、1キロという具合に一歩ずつ進んで行くしかないが(たとえ電車や飛行機に乗るとしても同じである)、頭は1センチのあと一気に1キロを考えることもできるし、5万キロから1ミリへももどることができるだけではなく、999999ミリと1000000 ミリさえ区別ができるのである。肉眼では1センチ四方の紙に描かれた999999角と1000000 角、円の区別はできないだろうが、頭はらくらくと区別ができる。こういう区別は、しかし、錯覚である。錯覚である、というのは「日常」では「無意味」である、ということでもある。そして、この「無意味」のなかで、頭は「快感」に酔うのである。頭だけができること、そのことを発見し、酔いしれる。
ことばはどこまで無縁なことばと結びつくことができるかが試されている。詩はだれもがいうように突然の出合いである。無関係なものの出合いである。その出合いの瞬間に飛び散る火花(錯覚)が詩である。森川は、いわば詩の「王道」を「王道」であることを利用して暴走しようとしている。
そういうことを前提にした上で、私には、森川の作品に対する不満がある。
前回、森川の作品を取り上げたとき、私は森川の作品は頭だけで書かれている、と批判した。肉体が不在である、と批判した。こうした作品に、頭だけで書かれているという批判が不当である、という見方があると思う。少し、私のいう不満について補足しておく。
私には、森川のことばが真に頭だけで書かれているとは感じられない。頭の快感というには不純物が多すぎる。(前回は肉体の側から批判したので、今回は頭の側から批判しておく。)たとえば、
この1行は「均一」ということばが美しい。「均一な水面」というときの「均一な」が一瞬錯覚を引き起こす。鏡のような水面を私は想像するが、こういうときに日本語は「均一な」とはいわない。いわないけれど、そのいわないはずのことばをとおして、そういう水面が目の前に出現してくる。その瞬間、私の頭は酔いしれる。あ、こんなふうに「均一な」ということばをつかってもいいんだ、と知らされ、その発見に酔いしれる。かっこいいじゃないか、と思う。森川はすごいなあ、と思う。
しかし、その「均一な」を浮かび上がらせる「背景」にげんなりさせられる。この1行の背後には「溺れるものはわらをも掴む」ということわざがあるのだが、その存在がげんなりさせる。ことわざはことばであってもことばではない。すでに肉体化した「知恵」である。頭、頭脳というものはそういうものを振り切って存在する。そういうものを振り切ったときに、頭になる。森川のことばのなかでは、肉体と頭が明確に区別されていない、と私はどうしても思ってしまう。
「にぎやかに祭礼は通りすぎ」の「にぎやか」にも同じものを感じる。「にぎやか」と「祭礼」では頭が入り込む余地がない。つまり、そこでは頭は暴走していない。かといって、たとえば三井葉子の句点「。」のように暴走を拒否しているわけでもない。単に肉体が顔を出し、その存在によってスピードが落ちているだけである。「山の端は明かるみ」も同じだし、「点滅するパルス」も同じである。
森川のことばにあっては、肉体の充実を頭が阻害し、頭の暴走を肉体が妨害する。これをもちろん肉体と頭の混淆、あるいは肉体と頭の混沌、というふうに定義し直し、そこから森川を高く評価することも可能なのだろうけれど、もし森川が肉体と頭の混沌を目指しているのなら、もっと意図的に「ぐちゃぐちゃ」なものを書いてほしい。中途半端すぎる。
「ただならぬ影」の「ただならぬ」のとんでもないブレーキ。こういうことばに出合うと、森川は頭でことばを書いているのではなく、惰性(肉体へ退化した頭、思考を停止した頭)でことばを動かしていると思ってしまう。頭の中にこびりついている肉体、すでに余分な皮下脂肪になってしまっている部分を意識的に洗い落とさないと、真の暴走の快感はないだろうと思う。森川は暴走しているつもりだろうけれど、見学している(?)私には、暴走するポースをとって止まっているように見えるのである。
きのう読んだ三井葉子の文体が暴走しない文体ならば、きょう取り上げる森川の文体は暴走する文体である。ことばが暴走するとき、そこにもし意味があるとすれば「快感」という意味である。ただことばを暴走させることの快感。ことばのスピードに肉体がついて行けない。肉体では追いつけないスピードを味わうことである。もちろん頭も追いついては行けないのだけれど、肉体と違って頭というのはときどきアナログではなくデジタルである。簡単に言うと、肉体は移動するとき1センチ、1メートル、1キロという具合に一歩ずつ進んで行くしかないが(たとえ電車や飛行機に乗るとしても同じである)、頭は1センチのあと一気に1キロを考えることもできるし、5万キロから1ミリへももどることができるだけではなく、999999ミリと1000000 ミリさえ区別ができるのである。肉眼では1センチ四方の紙に描かれた999999角と1000000 角、円の区別はできないだろうが、頭はらくらくと区別ができる。こういう区別は、しかし、錯覚である。錯覚である、というのは「日常」では「無意味」である、ということでもある。そして、この「無意味」のなかで、頭は「快感」に酔うのである。頭だけができること、そのことを発見し、酔いしれる。
わらが落ちている掴む手もない均一な水面に
にぎやかに祭礼は通りすぎ背中から鋭角に刺
しぬかれ狭まった隙間を抜ける風の音は耳骨
をゆらし瞬時の山の端は明かるみ点滅するパ
ルスが不定期に信号を停止し高速で引き戻さ
れるくだものの腐敗する甘やかなかおりは漂
い(略)
ことばはどこまで無縁なことばと結びつくことができるかが試されている。詩はだれもがいうように突然の出合いである。無関係なものの出合いである。その出合いの瞬間に飛び散る火花(錯覚)が詩である。森川は、いわば詩の「王道」を「王道」であることを利用して暴走しようとしている。
そういうことを前提にした上で、私には、森川の作品に対する不満がある。
前回、森川の作品を取り上げたとき、私は森川の作品は頭だけで書かれている、と批判した。肉体が不在である、と批判した。こうした作品に、頭だけで書かれているという批判が不当である、という見方があると思う。少し、私のいう不満について補足しておく。
私には、森川のことばが真に頭だけで書かれているとは感じられない。頭の快感というには不純物が多すぎる。(前回は肉体の側から批判したので、今回は頭の側から批判しておく。)たとえば、
わらが落ちている掴む手もない均一な水面に
この1行は「均一」ということばが美しい。「均一な水面」というときの「均一な」が一瞬錯覚を引き起こす。鏡のような水面を私は想像するが、こういうときに日本語は「均一な」とはいわない。いわないけれど、そのいわないはずのことばをとおして、そういう水面が目の前に出現してくる。その瞬間、私の頭は酔いしれる。あ、こんなふうに「均一な」ということばをつかってもいいんだ、と知らされ、その発見に酔いしれる。かっこいいじゃないか、と思う。森川はすごいなあ、と思う。
しかし、その「均一な」を浮かび上がらせる「背景」にげんなりさせられる。この1行の背後には「溺れるものはわらをも掴む」ということわざがあるのだが、その存在がげんなりさせる。ことわざはことばであってもことばではない。すでに肉体化した「知恵」である。頭、頭脳というものはそういうものを振り切って存在する。そういうものを振り切ったときに、頭になる。森川のことばのなかでは、肉体と頭が明確に区別されていない、と私はどうしても思ってしまう。
「にぎやかに祭礼は通りすぎ」の「にぎやか」にも同じものを感じる。「にぎやか」と「祭礼」では頭が入り込む余地がない。つまり、そこでは頭は暴走していない。かといって、たとえば三井葉子の句点「。」のように暴走を拒否しているわけでもない。単に肉体が顔を出し、その存在によってスピードが落ちているだけである。「山の端は明かるみ」も同じだし、「点滅するパルス」も同じである。
森川のことばにあっては、肉体の充実を頭が阻害し、頭の暴走を肉体が妨害する。これをもちろん肉体と頭の混淆、あるいは肉体と頭の混沌、というふうに定義し直し、そこから森川を高く評価することも可能なのだろうけれど、もし森川が肉体と頭の混沌を目指しているのなら、もっと意図的に「ぐちゃぐちゃ」なものを書いてほしい。中途半端すぎる。
一滴の水は枝の先端から落ちようとしガラス
質の表層を滑り溜まる光の屈折するどうだん
つつじが落首しただならぬ影を追う現象にぼ
くたちの眼球に音づれるスパークする言葉を
ひとりずつ手折り
「ただならぬ影」の「ただならぬ」のとんでもないブレーキ。こういうことばに出合うと、森川は頭でことばを書いているのではなく、惰性(肉体へ退化した頭、思考を停止した頭)でことばを動かしていると思ってしまう。頭の中にこびりついている肉体、すでに余分な皮下脂肪になってしまっている部分を意識的に洗い落とさないと、真の暴走の快感はないだろうと思う。森川は暴走しているつもりだろうけれど、見学している(?)私には、暴走するポースをとって止まっているように見えるのである。
形式を選んで、その中で
身体化された言葉の疾走が
あるように感じました。