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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池井昌樹『冠雪富士』(41)

2014-08-02 09:00:29 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(41)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「夢」は池井の「いま」を書いている。そしてその「いま」というのは、たとえば2014年08月02日であって、同時にこれまでのすべての「時間」である。これから先のすべての「時間」でもある。

ほら あなた
ユメミテイルメ
おや そうか
なにをユメみていたのかな
あとへあとへとゆきすぎる
きのうおとといさきおととい
バスのまどにはきょうのそら
ゆううつなそのくもまから
けさもきれいなひがさして
ああそらのおくそらのおく
あなた また
ユメミテイルメ
いくらそんなにいわれても
あとからあとからきもりない
あしたあさってしあさって
ゆううつなそのくもまにも
さしこんでくる
ひとすじのユメ

 「きのうおとといさきおととい」と「あしたあさってしあさって」が「ゆううつな」「くもま」ということばのなかで一体になってしまう。区別がない。そこには「きれいなひ」が射してくる。「きれいなひ」は「ひとすじのユメ」と言いなおされている。
 池井はそれをみている。
 「あなた」と呼びかけたひとには、その「きれいなひ(ひとすじのユメ)」は見えない。呼びかけたひと(妻?)に見えるのは、池井の「ユメミテイルメ」である。池井の「目」が見える。それは「現実」を見ないで「夢」を見ている。そう思うのは、繰り返しになるが、妻には池井の見ている「光景」が見えないからである。

 妻は池井が見ている「光景」(あるいは「現実/真実」)が見えない。見えないけれど、それが大切なものであることはわかっている。ただ、わかっているといっても、それでは何ができるか--ということになると、なかなかむずかしい。どうすればいいのか、よくわからない(のだと思う。わかっているかもしれないけれど。)
 わからなくても、ひとにはできることがある。
 いっしょにいることだ。「あなた」と呼びかけることだ。この呼びかけによって、池井は妻の世界とつながり、同時に、池井の「無時間」の世界とつながっていることも自覚する。
 これは、妻にあてられた感謝のラブレターかもしれない。

谷川俊太郎の『こころ』を読む
谷内 修三
思潮社

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池井昌樹の冠雪富士(41) (大井川賢治)
2024-02-28 23:43:10
「夢」という詩は、池井の奥様へのラブレターとも考えられている。この詩の評論の中で、谷内さんは、/わからなくても、ひとにはできることがある。いっしょにいることだ/と言う。すばらしい感想です。すばらしい文言です。
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