池井昌樹『冠雪富士』(41)(思潮社、2014年06月30日発行)
「夢」は池井の「いま」を書いている。そしてその「いま」というのは、たとえば2014年08月02日であって、同時にこれまでのすべての「時間」である。これから先のすべての「時間」でもある。
「きのうおとといさきおととい」と「あしたあさってしあさって」が「ゆううつな」「くもま」ということばのなかで一体になってしまう。区別がない。そこには「きれいなひ」が射してくる。「きれいなひ」は「ひとすじのユメ」と言いなおされている。
池井はそれをみている。
「あなた」と呼びかけたひとには、その「きれいなひ(ひとすじのユメ)」は見えない。呼びかけたひと(妻?)に見えるのは、池井の「ユメミテイルメ」である。池井の「目」が見える。それは「現実」を見ないで「夢」を見ている。そう思うのは、繰り返しになるが、妻には池井の見ている「光景」が見えないからである。
妻は池井が見ている「光景」(あるいは「現実/真実」)が見えない。見えないけれど、それが大切なものであることはわかっている。ただ、わかっているといっても、それでは何ができるか--ということになると、なかなかむずかしい。どうすればいいのか、よくわからない(のだと思う。わかっているかもしれないけれど。)
わからなくても、ひとにはできることがある。
いっしょにいることだ。「あなた」と呼びかけることだ。この呼びかけによって、池井は妻の世界とつながり、同時に、池井の「無時間」の世界とつながっていることも自覚する。
これは、妻にあてられた感謝のラブレターかもしれない。
「夢」は池井の「いま」を書いている。そしてその「いま」というのは、たとえば2014年08月02日であって、同時にこれまでのすべての「時間」である。これから先のすべての「時間」でもある。
ほら あなた
ユメミテイルメ
おや そうか
なにをユメみていたのかな
あとへあとへとゆきすぎる
きのうおとといさきおととい
バスのまどにはきょうのそら
ゆううつなそのくもまから
けさもきれいなひがさして
ああそらのおくそらのおく
あなた また
ユメミテイルメ
いくらそんなにいわれても
あとからあとからきもりない
あしたあさってしあさって
ゆううつなそのくもまにも
さしこんでくる
ひとすじのユメ
「きのうおとといさきおととい」と「あしたあさってしあさって」が「ゆううつな」「くもま」ということばのなかで一体になってしまう。区別がない。そこには「きれいなひ」が射してくる。「きれいなひ」は「ひとすじのユメ」と言いなおされている。
池井はそれをみている。
「あなた」と呼びかけたひとには、その「きれいなひ(ひとすじのユメ)」は見えない。呼びかけたひと(妻?)に見えるのは、池井の「ユメミテイルメ」である。池井の「目」が見える。それは「現実」を見ないで「夢」を見ている。そう思うのは、繰り返しになるが、妻には池井の見ている「光景」が見えないからである。
妻は池井が見ている「光景」(あるいは「現実/真実」)が見えない。見えないけれど、それが大切なものであることはわかっている。ただ、わかっているといっても、それでは何ができるか--ということになると、なかなかむずかしい。どうすればいいのか、よくわからない(のだと思う。わかっているかもしれないけれど。)
わからなくても、ひとにはできることがある。
いっしょにいることだ。「あなた」と呼びかけることだ。この呼びかけによって、池井は妻の世界とつながり、同時に、池井の「無時間」の世界とつながっていることも自覚する。
これは、妻にあてられた感謝のラブレターかもしれない。
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