入沢康夫『歌--耐へる夜の』(1988年)。
「J・Nの頭文字を持つてゐた人に」。西脇順三郎に捧げた詩である。追悼詩である。
もしもここで 私が
あなたの詩句を一行でも引用しようものなら
あなたの語調を片鱗だにも真似ようものなら
私が あなたを悼む気持は
無辺際に拡散してしまふことであらう
あなたの詩は 今日 私に
あなたの死は 今日 私に
それを固く禁じてゐる
かつて私は あなたの詩を
「したたかな」詩と形容した
それを撤回する気は毛頭ないが
その「したたかさ」にぴつたりと釣合つてゐた
あなたの「寄る辺なさ」についても
どこがで触れるべきではなかつたかと
今日 私は しみじみ思ふ
おそらくそれは
今日の私の 私たちの「寄る辺なさ」と
つながつてゐる思ひなのであらうけれど……
最後の「つながつてゐる」。ここに「誤読」への願い、祈りを私は感じる。その前の行の「私の 私たちの」という言い直しに、強い強い祈りを感じる。「私」だけではなく、「私たち」と言い直すとき、そこには「私」だけではなく、人間全体で引き受けるという行為が想定されている。西脇のことばを読み、そこからなにかを感じ、引き受けていく。入沢はそれを個人的な行為であると知っているけれど、同時にその個人的な行為が個人におさまらず「私たち」に共有されるものであることも知っている。「共有」されることを願っている。
この「共有」を言い直したのが「つながつてゐる」なのである。
「つながつてゐる思ひ」。それは共有された思いのことである。
「共有」というとき、一方に西脇がいる。他方に「私」(入沢)がいる。また「私たち」もいる。「思ひ」の周囲に別個な人間が存在する。そのことは「思ひ」がそれぞれ別個な個人的事情によって汚染(?)されているということでもある。それぞれ違ったものを「思ひ」のなかに人間はこめ、その違ったものをこそ「思ひ」と感じているかもしれない。「誤読」というのは、そういうことだ。
真実は「共有」されたもののなかにはない。真実は共有されない。それが「寄る辺なさ」というものかもしれない。「誤読」だけが「共有」されるのだ。
「淋しい/ゆえにわれあり」という西脇のことばを思い出してしまう。「共有」されないもの、つねに孤独なものがいつも存在する。そういうものを片方の目で見ながら、もう一方で共有されたものを見る。共有のなかで「つながり」が多くなればなるほど、真実は孤立する。寄る辺ないものになる。
そう理解しながら、それでも「つながつてゐる」ものの方に重心をずらし、そこで生きてゆくのが入沢のことばである。