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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

鎌田尚美「洪水」ほか

2020-07-27 17:06:36 | 詩(雑誌・同人誌)


鎌田尚美「洪水」ほか(「現代詩手帖」2020年07月号)

 新人作品(投稿欄)を読んでみる。
 鎌田尚美「洪水」を暁方ミセイと時里二郎の二人が選んでいる。

畦の雑草も水を引き入れたばかりの田も、な
にもかもが 雨に 雨に 打たれていた
真っ白な鈴蘭は毒を孕み、薄桃色の夕化粧が
花弁に赤い脈を打ち、ぼおうっと薄白く煙る
中で全身を雨に打たせ、生生しく撓るように
揺れ騒めいている

 私は田舎育ちなので、こういう風景はすぐに思い出すことができる。でも、都会のひとはどうなのだろう。
 私は五十年ほど前「詩学」に投稿していた。そのとき、私の集落で見たものを書いたのだが、飯島耕一に「これはトンボや蝉のいる世界だね」と一蹴された。私はトンボや蝉と一緒にいた。そして、そうか「現代詩というのは、こんな田舎のことを書かないのか」と思った。
 で。
 どうなんだろう。「水を引き入れたばかりの田」。これを何人が「肉体」そのものとして受け止めることができるか。水が広がって、嵩を増して、落ち着く。その落ち着きの静かな匂い。雨に打たれる畦と雑草のよろこび。雨と田の水と草の匂いのまじる豊かさ。
 フェイスブックなどを読むと、時里は自然のなかを歩いているから、まあ、知っているのだと思うけれど。でも、それをそのまま書くことで、私の投稿時代から五十年もたって、いったいだれがこれを実感できるのだろうかと、疑問に思う。
 「真っ白な鈴蘭は毒を孕み」というのは、そのころ私が「大都会」と憧れていたボードレーヌを思い出させる。「毒」がそう感じさせる。「薄桃色の夕化粧が花弁に赤い脈を打ち」は、やはりボードレーヌかなあ。ランボーかもしれないし、ディラン・トマスかもしれない。いずれにしろ、五十年よりも、もっと古い。
 もちろんいまも、そういう風景はあるし、そういう感覚もある。でも何か、嘘っぽい。そして、もちろんそれは承知のことなのだろう。たとえば「グラジオラス」が実は「ビニール袋」だったというような「今風」な認識がことばとして追加されるのだが、この「現実」の出し方が、私には非常に「作為的」に見える。こういう「作為」が時里の世界に通じるとは理解できても、私は、ちょっと「いやな感じ」を覚えてしまう。「グラジオラス」が「ビニール袋」だったのか、「ビニール袋」「グラジオラス」に見えたのか、そういうことを書くなら書くでおもしろいとは感じるが、そこへ導くことばが「畦の雑草も水を引き入れたばかりの田」というのは、どうかなあ、と疑問に感じるのだ。
 この詩には、

渡辺よ そうなのか
本当はなにもかもがいやになって死んでもいい
と思う雨の夜があったんじゃないのか

 という魅力的な三行がある。この「認識(記憶)の顕現」は、「畦の雑草も水を引き入れたばかりの田」の世界につづくならつづくで、私には納得できる。また、グラジオラスがビニール袋だったという世界につづいても納得できる。しかし田の水、グラジオラスがビニール袋という経路を通ったあとだと、違和感が残る。その「違和感」こそが「現代詩」の「現代」の部分、といわれれば、まあ、そうなのかもしれないと思うしかないが。

 暁方が選んでいる、宇ノ倉なるみ「大丈夫。」

右足の親指の変化にきづいた
靴下の中になにかどろっとしてものが
こころもとなく纏わりついている
そしてまるで歯科医にかかったかのように
右足の親指の感覚が
ぼやけている
なんだかあたたかい
これは
指が溶けているんだ

 「どろっとしたもの」「纏わりつく」が「歯科医(たぶん、局部麻酔麻酔)」を経て、「ぼやけ」「あたたかい」から「溶ける」という動詞に変化する。「纏わりつく」と「溶ける」が「ひとつ」になる感じを、「歯科医」という科学的(?)なものが「橋渡し」する。
 宮沢賢治だなあ、と思う。
 鈴木康太「昼」(暁方選)の、

股は
りん然と
にがい春に
そまってゆき

 この「りん然」と「にがい」の組み合わせなども。

 時里が選んでいる作品では、張文経「はだから」がおもしろい。

空が湿疹しているから
かきむしった
指がすこしずつゆびになり
ゆ、び、になって
水 といいちがう仕草でこぼれた

 「湿疹」の「湿」のなかに、その「サンズイ」のなかに「水」がかくれている。それが「ゆ、び、」という二音節を経て「水(み、ず、)」にかわる。これを「仕草」という名詞のなかに閉じこめる。隠す。その隠し方(ことばの仕草)は、「物語」の入り口である。そして、その「ことばの仕草」というのは、物語のすべてである。

傷から生まれてくる
もっと小さいものたちを
まだ
見ることができる、できる、よ、
あれを血とはよばないんだよ、
という人はそのとき そらと名のった

 「傷」は「湿疹」を「かきむしった」ことから生まれたのだろう。だから「水」が「血」に変化していく「物語」は必然でもある。
 それにしても、そのあとで「そらと名のった」と書き出しの「空」へと循環させる(ことばをひきもどす)手法はおもしろいなあ。ここから必然的に「二重」というものが(物語の二重性というものが)、さらに複雑化していく。
 先月も書いたことだが、選ばれた作品を読むと、なぜか選者の作風が見えてくる、というのはおもしろいものだ。











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