森川雅美
「山越」(「あんど」7)。
「あんど」7号の裏表紙に「夏の●」という文字が書かれている。●は「幻」と「幼」が微妙に合体したような文字である。山本哲也は何かの詩で「幻の幼い力」と書いていたが、それを思わせる。旁が「刀」になっている。表紙を書いた佐藤良助が間違えて書いたのか、それとも正確な文字を知らなかったのか、あるいはこんな文字が本当にあるのか……。
表紙を書いたのが佐藤良助なのだから、そのことと森川の書いている「山越」は何の関係もないのかもしれないが、森川の作品を読むたびに「夏の●」を思い出してしまう。そこにあるのは視力だけであって肉体ではないと思ってしまう。
作品はまだまだつづくのだが、どこまで引用すればいいのかわからない。おさえるところが押えられていない。「夏の●」でいえば「幻」と書こうとしたのか「幼」と書こうとしたのか、眼のあいまいな記憶によって肉体の押さえが中途半端になっている。眼と肉体が一体となっていない。肉体はまったく動かず、視力だけがさまよっている。視力を制御する肉体が欠落している。
とは、絵師が筆を動かしたときの腕の動きだけではなく、全身の肉体を感じ取ることだが、森川の作品を読むと、絵師が動かす腕の動きさえ伝わってこない。その動きが肉体にどんな影響を与えたのか、さっぱりわからない。
「眼をえぐる補色の欠片」「視覚のネガに遅延する鈍い痛み」。こうしたことばを読むと、森川は目さえもつかっていないような気がしてくる。目ではなく「脳」で対象を見ている。たとえば「補色」という固有の色はない。「補色」というものが存在するにはそれに先立つ色があり、その色と混ざると黒になってしまう色があり、その関係を「補色」という。「補色」とは「関係」をあらわすことばだ。「関係」は肉眼では見えない。「脳」が「関係」を判断し、それにことばを「定義」として与える。「肉眼」に「ネガ」などというものももちろんない。肉眼をカメラ(フィルムカメラ)と想定し、映像を定着させる装置としてフィルムを想定し、さらにはそこからポジに転写するという「映像化」の構造を想定しなければ「ネガ」というものなど存在し得ない。「ネガ」という比喩は「脳」がつくりだしたものである。
「山越」は何と読むのかわからない。だが
という行を読むかぎり、この作品は山を歩いて越えるときのことを書いているのだと思うが、「裸の足から岩肌に血がにじんでいく」ということばのわりには肉体がまったく感じられない。山をのぼるときの肉体、その疲れが感じられない。ここでも、描かれているのは視力の風景であり、しかもそれは「脳」の見た風景であって肉眼が見た風景ではない。岩肌に血がにじむというような風景は肉眼では見ることができない。「脳」にしか見ることができない。そして、その「脳」がそういう風景を見るためには、「脳」がもっともっと肉体に犯され、「脳」の働きが停止してしまわなければならない。岩肌に血がにじむはずがないという判断ができなくなるくらい「脳」が空っぽになったときにはじめて「岩肌に血がにじんでいく」ということばが生まれる。「のぼる山の地形はけわしく」などと冷静に、というか、なめきった判断ができるあいだは、「脳」は空っぽではない。
視力の問題点は、森川の書いた冒頭によくあらわれている。視力は直接対象には触れない。触覚が対象に触れることで互いに浸透する。(「裸の足から岩肌に血がにじんでいく」ということばが特徴的だが、それは触覚が引き起こす「錯覚」、「脳」が判断停止することによって、「脳」が勘違いすることがらだ)。視覚はつるつる、すべすべ、ごつごつに触れても肉体的には何の変化もない。すべらない。ひっかからない。つまり、おなじスピードで動いていく。近くも遠くも自在に動いていく。肉体を置き去りにして動いていく。そのために、どこを押えなければ間違ってしまうのかという判断がおろそかになる。
実際に山を越えるなら、足の一歩一歩は、そこにある一個の石に対しても足先で踏むべきか、踵で踏むべきか、あるいは踏まずに越えるべきかということをいちいち判断しなければならない。判断が間違えばけがをする。
視力だけで山を越えるとき(視力による想像登山の場合)、そういう恐れはない。
恐れはないが、それを読む読者の側から言えば、これはいったい何?という疑問が沸き起こる。「夏の●」とおなじである。「幻」という文字が正確でないのは、それが肉体として把握されていないからである。肉体として表現されていないからである。
という行を借りて言えば、「夏の●」と書いた佐藤の筆を動かす意志は、肉体の押さえどころを勘違いしている。「夏の●」からは、だから、「意志」(精神)がつたわってこない。同じことを森川の作品からも感じた。視覚だけがともどもなく右往左往するが、その右往左往は肉体と結びつかない。単なる右往左往にしか見えない。
*
同じ「脳」を旅する作品として、たとえばきのう取り上げた松下育男と比較すれば、松下のことばの方がはるかに肉体として浮かび上がってくる。
「国語」の「1」の3連目。
ここには実際に滝を見たときの肉眼がある。耳がある。肉体の感じた恐怖のようなものがある。
「脳」は肉体でなければならない。
「あんど」7号の裏表紙に「夏の●」という文字が書かれている。●は「幻」と「幼」が微妙に合体したような文字である。山本哲也は何かの詩で「幻の幼い力」と書いていたが、それを思わせる。旁が「刀」になっている。表紙を書いた佐藤良助が間違えて書いたのか、それとも正確な文字を知らなかったのか、あるいはこんな文字が本当にあるのか……。
表紙を書いたのが佐藤良助なのだから、そのことと森川の書いている「山越」は何の関係もないのかもしれないが、森川の作品を読むたびに「夏の●」を思い出してしまう。そこにあるのは視力だけであって肉体ではないと思ってしまう。
光は確かに右斜め上方からも射し
まだ明けない山肌のおうとつをかすかに浮かびあがらせ
光源として山間に現われる阿弥陀如来の光沢に
一人の絵師の筆の動く意志を思い
遠景に輝く明け方の太陽をじっと見つめ
眼をえぐる補色の欠片とゆっくり染みわたる温みと
視覚のネガに遅延する鈍い痛みがはびこり
作品はまだまだつづくのだが、どこまで引用すればいいのかわからない。おさえるところが押えられていない。「夏の●」でいえば「幻」と書こうとしたのか「幼」と書こうとしたのか、眼のあいまいな記憶によって肉体の押さえが中途半端になっている。眼と肉体が一体となっていない。肉体はまったく動かず、視力だけがさまよっている。視力を制御する肉体が欠落している。
一人の絵師の筆の動く意志を思い
とは、絵師が筆を動かしたときの腕の動きだけではなく、全身の肉体を感じ取ることだが、森川の作品を読むと、絵師が動かす腕の動きさえ伝わってこない。その動きが肉体にどんな影響を与えたのか、さっぱりわからない。
「眼をえぐる補色の欠片」「視覚のネガに遅延する鈍い痛み」。こうしたことばを読むと、森川は目さえもつかっていないような気がしてくる。目ではなく「脳」で対象を見ている。たとえば「補色」という固有の色はない。「補色」というものが存在するにはそれに先立つ色があり、その色と混ざると黒になってしまう色があり、その関係を「補色」という。「補色」とは「関係」をあらわすことばだ。「関係」は肉眼では見えない。「脳」が「関係」を判断し、それにことばを「定義」として与える。「肉眼」に「ネガ」などというものももちろんない。肉眼をカメラ(フィルムカメラ)と想定し、映像を定着させる装置としてフィルムを想定し、さらにはそこからポジに転写するという「映像化」の構造を想定しなければ「ネガ」というものなど存在し得ない。「ネガ」という比喩は「脳」がつくりだしたものである。
「山越」は何と読むのかわからない。だが
法然上人さんや、藤原道長さんや
死んだ友人も歩き
のぼる山の地形はけわしく
裸の足から岩肌に血がにじんでいく
という行を読むかぎり、この作品は山を歩いて越えるときのことを書いているのだと思うが、「裸の足から岩肌に血がにじんでいく」ということばのわりには肉体がまったく感じられない。山をのぼるときの肉体、その疲れが感じられない。ここでも、描かれているのは視力の風景であり、しかもそれは「脳」の見た風景であって肉眼が見た風景ではない。岩肌に血がにじむというような風景は肉眼では見ることができない。「脳」にしか見ることができない。そして、その「脳」がそういう風景を見るためには、「脳」がもっともっと肉体に犯され、「脳」の働きが停止してしまわなければならない。岩肌に血がにじむはずがないという判断ができなくなるくらい「脳」が空っぽになったときにはじめて「岩肌に血がにじんでいく」ということばが生まれる。「のぼる山の地形はけわしく」などと冷静に、というか、なめきった判断ができるあいだは、「脳」は空っぽではない。
視力の問題点は、森川の書いた冒頭によくあらわれている。視力は直接対象には触れない。触覚が対象に触れることで互いに浸透する。(「裸の足から岩肌に血がにじんでいく」ということばが特徴的だが、それは触覚が引き起こす「錯覚」、「脳」が判断停止することによって、「脳」が勘違いすることがらだ)。視覚はつるつる、すべすべ、ごつごつに触れても肉体的には何の変化もない。すべらない。ひっかからない。つまり、おなじスピードで動いていく。近くも遠くも自在に動いていく。肉体を置き去りにして動いていく。そのために、どこを押えなければ間違ってしまうのかという判断がおろそかになる。
実際に山を越えるなら、足の一歩一歩は、そこにある一個の石に対しても足先で踏むべきか、踵で踏むべきか、あるいは踏まずに越えるべきかということをいちいち判断しなければならない。判断が間違えばけがをする。
視力だけで山を越えるとき(視力による想像登山の場合)、そういう恐れはない。
恐れはないが、それを読む読者の側から言えば、これはいったい何?という疑問が沸き起こる。「夏の●」とおなじである。「幻」という文字が正確でないのは、それが肉体として把握されていないからである。肉体として表現されていないからである。
一人の絵師の筆の動く意志を思い
という行を借りて言えば、「夏の●」と書いた佐藤の筆を動かす意志は、肉体の押さえどころを勘違いしている。「夏の●」からは、だから、「意志」(精神)がつたわってこない。同じことを森川の作品からも感じた。視覚だけがともどもなく右往左往するが、その右往左往は肉体と結びつかない。単なる右往左往にしか見えない。
*
同じ「脳」を旅する作品として、たとえばきのう取り上げた松下育男と比較すれば、松下のことばの方がはるかに肉体として浮かび上がってくる。
「国語」の「1」の3連目。
端というのは、そのものの終わりの部分です。そのものと、そのものでないものとの、境目です。そのものが、そのものでないものへ、滝のように落ち込んでいるところです。ごうごうと水しぶきをあげて、そのものが落ち込んでゆくところです。
ここには実際に滝を見たときの肉眼がある。耳がある。肉体の感じた恐怖のようなものがある。
「脳」は肉体でなければならない。
この文章読んで、「あんど」の原稿をいただいたときに感じた、私と谷内さんの考え、意識といったほうがいいのでしょうか、の違いを再確認しました。谷内さんは倫理的な人なのですね。いわば、個としての身体や思考からのみ、言葉の身体をとらえているのですね。しかし、言葉の身体を形づくる意識は、より複雑で自分では説明できない他者をも、はらみこんでいるのでは。そしてその可能性こそが、日常という規則を破るのでは。そして、それは時に勘違いという、プロセスをとるかもしれません。少なくとも、現在の身体は近代的個の意識では語れないでしょう。そのように考えていくと、谷内さんが萩原さんの詩について書かれた、以下の文章は成り立たないのでは。
ここに子供の本当の姿は描かれていない。「私は繊細な子供であった」という宣伝があるだけである。
本当にそうでしょうか。私はここに子供は描がかれていると思います。ただ、分岐する複数の意識が絡み合っているため、判りにくいだけです。なにも子供を描いたら、はっきりと取り出せる、子供が必要ということはないでしょう。むしろそのような意識は、詩を私的な場所に閉じ込めてしまいます。
私の詩に関しても、同様の誤読だと思います。谷内さんが取り上げた、小杉元一さんの詩はまさに個の思考のプロセスであり、日常の規範であり、やや偽善も感じ、私には興味が持てません。ブログを読ませていただきましたが、取り上げた作品のいくつかは、私には日常雑記か、私小説の行分けにしか思えないものも、少なからずありました。もう少し自分のことを書くなら、今ここにある身体は大変不快です。あるいは、破壊したいと衝動が書く根本にあるにかもしれません。
もちろん、詩の読みは多数あって当然ですので、何が間違っているとはいえないでしょう。ただ、私の立場からとらえて、自作を明らかに誤読されたと思える場合は、反論をするのが誠意と思いますので、コメントします。
私もそう思います。
ただし、私は「自分では説明できない他者をも、はらみこんでいる」というときの「他者」を私は「精神」ではなく「肉体」と考えています。
「頭」で考えるのではなく、「肉体」が考える。そういうものがある。そして、「肉体」で考えたことばの方が、他人に共有される可能性が高いと私は感じています。
森川さんの詩に感じたことは、森川さんは「頭のなかの眼」で風景を描写している、ということです。
それはそれでもちろん一つの実験だと思います。
私は、そういう実験は実験として、そこに実際の山を越えるという肉体の反響があった方が信じられると考えます。
森川さんが実際に山越えをし、そのときの体験を眼に集約させて詩を書いたと主張するのでしたら、それはその通りなのでしょう。
私はもともとそんなに体が丈夫ではないし、目も肉体的にとても脆弱です。森川さんのように肉体の疲労が眼に反響しないような視力を持ち合わせていませんので、ただ感嘆するしかありません。
私は森川さんが実際に山を越えて、そのときに岩肌に血がしみこむような体験をしたとは感じられなかった。
森川さんは実際の体験ではなく、頭のなかで山を越えるという運動をしている。そのために、肉体の運動としては視力が最優先し、その他の感覚が置き去りにされていると感じました。
実際に、森川さんが、山越えをして、その際、岩肌に血がにじむようなケガもしたというのでしたら、ただただ「お大事に」、「ケガはもうなおりましたか?」としか言えません。
「私の個の日常を超えたところまで伸びる意識のリアル」と森川さんは書いていますが、詩のことばは(あるいは文学のことばは)、そういうものを目指していると思います。
そして、その超越(?)は、私は日常の内部を掘り下げる、自己の肉体を掘り下げるということでしか
達成できないのではないかと考えています。
個人の日常、肉体には他人の感覚・意識がしみついています。
それを振り払い振り払い、自己自身の内部の肉体へと掘り進む。その過程で、掘り進む作業とは逆向きに、ことばは自己を超越してリアルになっていく、と思います。