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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

フェルナンド・メイレレス監督「ナイロビの蜂」

2006-05-20 02:06:34 | 映画
監督 フェルナンド・メイレレス 出演 レイフ・ファインズ、レイチェル・ワイズ

 アフリカの映像が新鮮で、すばらしく美しい。冒頭に湖の上を跳ぶ鳥のシーンがある。白い影が湖面にも映っている。ことばで書いてしまうと、ハリウッドの監督の映像とフェルナンド・メイレレスの映像の違いがわからなくなるが、ハリウッドの映画とはまったく違った新鮮な映像である。構図そのものが違うのだと思う。意図そのものが違うのだと思う。フェルナンド・メイレレスは美しい構図を探していない。美しいアングルを探していない。どうすれば実際に見たままに映像化できるかを考えているようだ。初めての土地へ行ったとき、私たちはその風景の構図を考えることができない。世界を安定的にとらえる構図が、新しい土地では(あるいは新しい社会では)成り立たない。目はいつもよりも宙ぶらりんになる。視覚がむき出しになる。むき出しにさせられる、無防備にさせられる、ということかもしれない。そのむき出しのままの視線、無防備の視線が風景と出会い、一瞬一瞬、映像をつくりだしていく。それが新鮮で、とても美しい。
 この視線は、そして単にアフリカの風景だけに対してそうなのではないことが映画の展開とともにわかってくる。そこで展開される視線、映像そのものが徐々にストーリーそのものに変化していく。映像がとても濃密な時間となって立ち上がってくる。
 レイフ・ファインズはレイチェル・ワイズが見ているものが何かを最初は知らない。知らないまま、レイチェル・ワイズにひきずられるようにして彼女の見ている世界をぼんやりと眺めている。そうした眺め方があるということを「頭」で認識して、なぞっている。ところが彼女が事件に巻き込まれ、死亡してから、レイフ・ファインズは彼自身の目でレイチェル・ワイズが見つめていたものと向き合うことになる。そのとき彼の目は丸裸である。予備知識がない。世界を見るための「構図」がない。むき出しである。その瞬間に見えたものを手がかりに、そのつど「構図」をつくりだしていかなければならない。どんな全体像になるかわからないまま、見たものを世界として定着させなければならない。この不安な緊張感が、新鮮で美しい映像になる。
 新しい映像がただ単に新鮮なだけではなく美しいのは、ありきたりのことばになってしまうが、それを支えるものが「愛」だからである。
 「愛」とは自分が自分でなくなってしまってもかまわないと決意して他者に向き合うことだが、レイフ・ファインズがレイチェル・ワイズが死亡した後にとる行動はまさにそういうものである。レイフ・ファインズは自分の仕事を失う。大好きだったガーデニングもしなくなる。ただただレイチェル・ワイズが見つめていた世界、それがどんな「構図」をもつ世界なのかを追い求める。レイチェル・ワイズの視線の「構図」そのものを、彼自身の視線の「構図」にしてしまう。そうやって、レイフ・ファインズはレイチェル・ワイズへと還っていく。究極の愛というものがあるとしたら、たしかにそれはこういうものだろう。
 エンディングが悲劇なのに美しいのは、そこには愛が完成したという印象が残るからである。
 それにしても、この社会的に重いテーマ、そして複雑で真摯な愛を、ハリウッドの文法とはまったく違った、大地に根ざした映像にして提出するフェルナンド・メイレレス監督の力強さはすごい。まったく新しい映像の積み重ねが、いままで見ていた世界をひっくりかえす。いままで見えていたものとは違った「構図」となって立ち上がってくる。感動してしまう。

 レイチェル・ワイズはこの映画でアカデミー助演女優賞を獲得している。主演女優賞を獲得した「ウォーク・ライン」のリーズ・ウェザースプーンも、それまでの印象を一新するすばらしい演技だったが、レイチェル・ワイズが主演女優賞にノミネートされていたらどうだったろうか。自己主張を曲げない剛直さと他者への深い愛をはっきりした視線で伝えるとてもいい演技だった。

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