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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(16)

2014-11-23 10:00:06 | 北川透『現代詩論集成1』
谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(16)(ナナロク社、2014年11月01日発行)

 「ひととき」は静かな詩である。

長い年月を経てやっと
その日のそのひとときが
いまだに終わっていないと悟るのだ

空の色も交わした言葉も
細部は何ひとつ思い出さないのに
そのひとときは実在していて
私と世界をむすんでいる

死とともにそれが終わるとも思えない
そのひとときは私だけのものだが
否応無しに世界にも属しているから

ひとときは永遠の一隅にとどまる
それがどんなに短い時間であろうとも
ひとときが失われることはない

 「意味」、あるいは「論理」の強い詩である。そして、その「意味(論理)」が、「いま/ここ」ではなく、どこか別の場所へと私を運んで行ってくれる。この詩に書かれている「ひととき」が「私」であるとするなら、それを「永遠」へと運んで行ってくれる--という感じがする。「いま/ここ」が「永遠」とつながっているから「静かな」という印象になるのだと思う。
 谷川は、その「つながり」を「私と世界をむすんでいる」「世界にも属している」という具合に、「むすぶ」「属する」ということばで言いなおしている。「むすぶ」も「属する」も「もの」がひとつではできない。「むすぶ」「属する」ということばは、「ふたつ」のものを必要とする。そして「むすぶ」とき、「属する」とき、その「ふたつ」は「ひとつ」になる。
 ことばもまた、何かを書き、その何かと「むすび」あい、何かに「属する」(あるいは、何かがことばに「属する」のかもしれない)。そうして、「ひとつ」になる。そのとき、そこに「永遠」があらわれるのかもしれない。
 「いま/ここ」が「永遠」とつながるのではなく、「いま/ここ」が永遠になるのかもしれない。

 この詩では、私は、そういう「意味」とは別に、一連目の「悟る」ということばに立ち止まった。この詩集の感想を書いている途中で、私は「わかる」と「さとる」は違う、というようなことを書いた。もう、何と書いたかはっきりとは思い出せないのだが、「わかる」と「さとる」は違うと私は思う。
 「わかる」は「分かる」と書くことがある。そのときの「分」という文字は「分ける」にもつかう。何かを「分ける」ことで、そこに「意味」を与える。未分節を分節化する。それが「わかる」ということだろう。「さとる」は「分ける」ことをせずに、全体をそのまま受け入れ、納得するようなものだと思う。未分節のまま、それでいい、と思うことが「さとる」。「未分節」のまま世界を動かすのが「さとる」だろう。
 そういう風に考えると、谷川の書いている二連目以下は、どうなるのだろう。そこでは「世界」が「分節」されている。「空の色」「交わした言葉」が「その日」から「分けて」取り出され、「何ひとつ思い出さない」と動詞に結びつけられて「意味」になっている。そして、それでも「ひととき」は「実在している」と「分かる」。「ひととき」が「私」と「世界」を「むすんでいる」と「分かる」。
 いや、それは「分かる」ではなく、「悟る」であると考えるべきなのか。谷川は「悟る」と書いているから、それは「分かった」ことではなく「悟った」ことなのか。
 たぶん、そうなのだと思う。
 そうだとしたら、その「悟る」の「証拠」はどこにあるか。なぜ、二連目以下に書かれていることが「分かる」ではなく「悟る」なのか。その「証拠」は?
 書いていることが前後してしまうが、その「証拠」は「むすぶ」にある。「むすぶ」は「分ける」とは別な動詞である。
 「ひととき」と「世界」は別なものとしていったん「分けられた」。「ひととき」が「世界」とは別のものであると「分かった」。分かった上で、それをもう一度「むすぶ」。「わける」をなくしてしまう。「分節化」されたものを「未分節」に戻してしまう。あるいは、「分節/未分節」を自在に往復する。それを「さとる」と言うのだ。

 分節/未分節を自在に往復する--という自在な運動から、私は、この本を読んだときの、最初の印象にもどる。分節/未分節を往復するというのは「ことば(論理)」では可能だが、そういう動きは実際には存在しない。精神の動きというのは「分節」化するときにのみ存在し、「未分節」に戻ってしまえば、動きがなくなる。「未分節」は「分からない(「分かる」が「無い」)」ということだから、そこでは何も動いていない。
 そこには分節化された「有」と未分節のままの「無」がある。「有」と「無」の結合がある。
 これは、矛盾。
 もし魂が存在するとしたら、この矛盾と密接な関係がある。
 それを直観することが「悟る」かな?

 こういう抽象的なことばをつなげていくことは、私は、好きではない。どうしても嘘を書いている気持ちになってしまう。「意味」をつくり出しているような気がして、そのとき、ことばに何か無理なことをさせていると感じる。知ったかぶりをしているなあ、と自分で感じてしまう。分かったようなふりをしているが、悟ってはいないと言えばいいのか……。

 で、詩にもどる。
 この詩では、もうひとつ「否応無しに」ということばが印象に残った。読みながら思わず傍線を引いてしまった。
 「否応無し」とはどういうことだろう。「私(谷川)」が「否定」しようが「応諾」しようが関係なしにということだろう。「私」の「意図/意思」と関係なしに、ということは、そこでは「私」は無力であるということだ。
 「私」が「無」になる瞬間がある。「私」は「有」なのだが、その「有」が「無」としてあつかわれる瞬間がある。「世界」に「属し」て、「未分節」になるということかもしれないが、それは「否応なし」。それは「私」とは別の「論理」で起きることである。
 それがどんな「論理」なのか、「私の論理」では「分からない(分節できない)」。けれど、そういうことがある--それは「さとる」しかないことなのだろう。「否応無し」を受け入れることが「さとる」ことなのかもしれない。

 と、書いてくると。
 谷川は詩を「否応無し」に書かされているのかもしれない、という気持ちにもなる。書いているのではなく、何かに書かされている。何にか。「タマシヒ」に、と言ってみたくなる。魂の存在を信じていない私がこんなことを書くのは変だが……。

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