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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

松浦寿輝「背後の橋」

2017-01-01 09:11:31 | 詩(雑誌・同人誌)
松浦寿輝「背後の橋」(「現代詩手帖」2017年01月号)

 松浦寿輝の「文体」は長い。「背後の橋」に特徴があらわれている。

ようやく渡りおえた橋は背後ですでに絶たれ
濃い靄が立ちはだかって前途はまったく見透せない
こんなことが前にもあったなとわたしは考えていた
立ちすくむという体験にはどこか甘美な陶酔がある
底に恐怖がうごめいていない陶酔というものはないのだ

 渡り終えた橋が背後で絶たれ、引き返せない。靄が立ち込めていて前にも進めない。「実景」なのかどうかわからないが、「実景」として読むことができる。橋、靄、立ちすくむ「わたし」という存在を「事実」とみなすことができる。
 これを松浦は「考え」で反復する。「こんなことが前にもあったな」というのは、しかし背後で橋が絶たれ、靄で前にも進めないという「実景」そのものではなく、「立ちすくむ」ということである。「実景」が「立ちすくむ」という「動詞」のなかで反芻されている。そしてそれがさらに「陶酔」と言いなおされ、その「陶酔」がもう一度「底に恐怖がうごめいている」という「状況」として言いなおされる。
 「実景」が「立ちすくむ」という「動詞」として言いなおされ、「立ちすくむ」という肉体の「動詞」が「陶酔(する)」という「官能」の動きとして言いなおされ、さらにそれが「底に恐怖がうごめいている」という「状況」として言いなおされる。
 「実景」も「状況」と言えるが、私はここではつかいわけている。「実景」は「わたし」の「肉体」の存在する世界。「状況」は「わたし」の「内面(思考/感覚)」でとらえなおした世界。松浦は「肉体」のありようを、「内面」のありようとして言いなおしていることになる。
 「言い直し」のために「文体」が長くなる。

 「言い直し」には、もう一つ特徴がある。
 「ようやく」とか「すでに」とか「まったく」という「副詞」は、ことばの上では(文法上は)「肉体の動詞」をある方向に導く働きをする。「ようやく/……する(した)」「すでに/……した」「まったく/……ない」という具合に。

渡りおえた橋は背後で絶たれ
濃い靄が立ちはだかって前途は見透せない

 でも「実景」は変わらないが、何かが違う。
 「副詞」によって「動詞」が「文法上」決定されるとしたら、その「副詞」のなかには「文法上」の動きを支配する「精神」のようなものがある。
 「実景」に見える最初の2行も、「精神(文法意識=ことば)」によって生み出されている。「実景」も「実景」ではなく、ことばによって(文法によって)生み出された「状況」なのである。「精神」を「精神」で言いなおす。
 この動きは止まらない。
 「実景(肉体)」を「状況(内面によって把握され、整理された意味)」に言いなおすだけなら、そこで終わりだが、「精神(内面によって整理された意味)」は何度でも言い直しを求められる。「内面」というものには「果て」がないからである。

ポケットから取り出したペーパーマッチを開き
何本か残っているのを確かめ安堵した後になって
どこかに煙草の箱を忘れてきたことに気づく
それでもマッチの軸を一本引きちぎってあてどなく
火を点けてみる 何かを占うように 何かに挑むように
陶酔を長引かせるように 未練の芽を断つように
しかし それもこれも無意味なことだ

 「ペーパーマッチ」という印象的な存在が「実景」として強く浮かび上がる。もう一度「実景」にもどったかのような印象を与える。しかし「確かめ(る)」という動きが、「肉体」の運動というよりも「精神」の運動である。「忘れる」は「肉体」の動作の結果だが「気づく」は「精神」の運動である。
 どれが「肉体」の動詞であり、どれが「精神」の動詞なのか、相対化し、特定するのは、しかし意味がないだろう。「言い直し」によって、その関係は、常に相互入れ替えができるだろうから。「陶酔」を「長引かせる(言いなおし続ける)」ためのものだから。松浦がつかっていることばをつかえば、「無意味」ということになる。
 詩は、このあと、こうつづいていく。

後方に棄ててきてしまったものはもう思い出せないし
前方に待ち受けるものをめぐる予想はいつも外れるから
火が指を焼く前にわたしはマッチを決然と投げ捨てる

 「思い出せない」「予想(する)」という「精神」の運動が先行し、「マッチを投げ捨てる」という「肉体」の運動が追いかける。ただし、そこにも「決然と」ということばが動き、文法上の(精神上の)動詞を決定するということが起きている。
 ここからも「実景/状況」「肉体/内面(精神)」の特定が「無意味」であるといえるだろう。
 言い換えは、さらにつづいていく。

炎が宙を飛んでその軌跡が靄をひとすじきらめかせる
だからと言って その靄を闇とは呼び換えるまい
日の名残りはまだこの冷気のなかを揺曳しているのだ
帰っていくべき場所はどこにもない なのにそれはある
必ずあると感じられてならないのはいったいなぜなのか
かつて在ったものへのこの烈しく胸苦しい想いは何なのか

 うーん。私はだんだん「小説」を読んでいる気持ちになる。後半に「微差」ということばが出てくるが、こんな微妙な違いを追いつづけることばは、「小説」だなあ。長い長いストーリーのなかで、微妙な変化を浮かび上がらせる。ストーリーがどんなに劇的であっても、あるいは劇的であればあるほど、この「劇的」なことは些細なことから始まったというときの「小さな何か」。小さな動きを拡大し延々と書き込むのが「小説」である。行わけで「詩」の形はしているが、ことばの運動は「小説」。松浦は「散文」を生きているのだなあと感じた。


BB/PP
松浦 寿輝
講談社

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