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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ボストン美術館収蔵「浮世絵名品展」

2008-08-22 13:35:30 | その他(音楽、小説etc)
ボストン美術館収蔵「浮世絵名品展」(福岡市美術館)

 「浮世絵初期の大家たち」「春信様式の時代」「錦絵の黄金時代」「幕末のビッグネームたち」の4コーナーにわけて作品が展示されている。墨一色から始まり、美人画、肖像画、風景と変遷していく浮世絵の歴史がくっきりと浮かび上がる。時間の流れの中においてみると東洲斎写楽の異様さ(特異性)がとりわけ際立つ。
 多くの美人画は江戸時代のひとにはどんなふうに見えたのかわからないが、私には同じ顔にしか見えない。彼女たちを区別するのは着物(衣装)、髪飾りにすぎない。美人であるかどうかはより豪華な着物を着ているか、帯をしているか、髪は華麗に結われているかの違いにしか見えない。浮世絵には「春画」というジャンルがある(残念ながら展覧会では展示されていない)から、美人画が「プレイボーイ」の写真のように庶民のあいだで利用されたとは考えにくい。美人画は美人の紹介というよりも美人のファッション画として利用されたのかも知れない。ファッション画というのは実際に着物を着るひとの目安になると同時に、色の組み合わせ、着こなし(着くずしのスタイル)というような美意識の表現であったかもしれない。美人を描くというよりも、作家の美意識の表現、そして表現技術を競う場であったかもしれない。蚊帳のこまかな網目、薄墨で表現される雨の動き。その繊細な視線を競うかのように次々に浮世絵が生まれていったような印象を受ける。
 ところが写楽だけが違う。写楽にも繊細な表現の意識はあっただろうが、それは一番目の意識ではない。写楽はまず「顔」を描いた。のっぺりした非個性的な顔ではなく、誇張された顔を書いた。表情のなかに人生を描いた。それはファッションとは無縁である。人は顔を通してこれだけ表現できる、ということをあらわした。ひとそれぞれの個性を発見し、個性を確立したのが写楽かもしれない。
 「金貸石部金吉」。その目。眼光。それは顔を逸脱している。逸脱するものこそ個性であり、芸術なのだ。そうしたことをとても印象づけられる。色もおもしろい。特にバックの灰色が美しい。図版などで見ていたときはぼんやりしていて灰色に気がつかなかったが、その灰色は特異である。背後を完全に沈めてしまう。人間だけが、顔だけが、あらゆるものを凌駕してそこに出現してきたような印象である。誇張された表情と同時に、その灰色に写楽の「思想」を見たように思った。

 北斎の風景画は、構図の発見である。どの絵も独特の遠近感と躍動感に満ちている。風景というものは本来動かない。不動である。そういう世界に運動を引き込んだところが北斎のおもしろいところだと改めて思った。

*

 展示されている作品全体から感じたのは黒の美しさだ。非常に強い。墨の美しさがあって初めて線で描くという日本の絵の独特な技術が発達したのかもしれない。
 西洋の絵は面である。日本の絵は線である。その違いは、アニメにまで尾を引いている。そんなことも考えた。

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