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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

リッツォス「タナグラの女性像(1967)」より(8)中井久夫訳

2008-12-29 00:43:34 | リッツォス(中井久夫訳)
カルロヴァッシにおける死    リッツォス(中井久夫訳)

死んだ男とイコンは奥の部屋に安置された。女は男の上にかがみ込んだ。女も男も手を組み合わせていた。女には男の見分けが付かなかった。
彼女は腕をほどいた。もう一人の女が台所でサヤエンドウを湯がいていた。
鍋の沸騰する湯の音が死んだ男の部屋にどっと入って来た。長男が部屋に入った。あたりを見廻した。
のろのろと帽子を取った。最初の女は、できるだけ音を立てないように、
卵の殻をテーブルから集めてポケットに入れた。



 私は、こういう生活がきちんと書かれた作品が好きだ。生活をきちんとことばにして、そういうことばが詩になるのだと教えてくれる作品が好きだ。
 だれかが死ぬ。そういうときも、人の暮らしはつづいている。それは非情なことなのか、とけも情がこまやかなことなのか、よくわからない。よくわからないけれど、そういう時間がたしかに存在する。そして、それはことばになることを待っている。
 死とサヤエンドウを湯掻くという生活の出会い。そこに詩があるのだ。人間の淋しさがあるのだ。こういう出会いをみると、私は西脇順三郎を思い出す。淋しい。淋しい、ゆえに我あり、といった西脇を。その淋しさの美しさを。

鍋の沸騰する湯の音が死んだ男の部屋にどっと入って来た。長男が部屋に入った。あたりを見廻した。

 この文体も、私は非常に好きだ。森鴎外を思い出す。
 長男がドアを開けて部屋に入ってきた。そのために湯の音が聴こた、というのではない。湯の音に気がつく。気がついてみると、そこに長男が入ってきていた。そういう意識の動きを説明をくわえずに具体的に描く。説明を省略しているために、ことばが非常に速くなる。意識にではなく、肉体に直接何事かを知らせる。そういう強い文体に、とてもひかれる。(これは原詩の力というよりも、中井の訳の力かもしれない。中井の訳には漢文のスピードが非常に多く登場する。)
 説明がないからこそ、私たちは、「頭」を経由しないで、男の動き、その意味を肉体で知る。女の動きの意味を、「頭」を経由しないで、肉体で知る。そういうとき、肉体のなかに、死の記憶、誰かの死と立ち会ったときの記憶がくっきりと浮かび上がり、作品を、遠い世界のものではなく、自分の身近なものと感じる。
 肉体のことばで書かれた作品には、時空を超える力がある。

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