監督 三木聡 出演 伊勢谷友介、松尾スズキ、菊地凛子
芝居が映画を越境する--そういう映画が増えた。メディアとしては映画なのだが、やっていることは芝居である。「舞妓Haaaaan!!!」「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」もそうである。3本の中では、この「図鑑に載っていない虫」が一番おもしろい。全編、芝居、芝居、芝居のリズムで突っ走る。そして芝居の欠点、こまかい表情や細部が見えないという部分は「映画」で突き破ってしまうのである。
芝居のリズムは冒頭の「黒い本」の編集室の描写からいきなり疾走する。女編集長がレール(?)の上の椅子ですいすい移動するシーン。そのせりふのリズム。「死にモドキ」を探し出して「臨死体験」を書けという無理な注文。うさんくさい世界をことばで出現させる力と役者の肉体の見せ方。(女編集長の、口の周りの青い痣の見せ方--その過去の描き方。)でたらめ(?)も役者の肉体を通すとほんとうになるという芝居特有のスピード感。
あるいは片桐ハイリがSMクラブの廃品を処分するシーン。「SMもやめてしまえばただの不燃ごみ」(だったかな? 燃やせるごみだったかな?)と3回くりかえして言う。それに対して「何回も言うなよ」と突っ込まれると、逆に「何か言いたいことがあるんじゃないの。はやく言ったら?」と突っ込まれるシーン。その他、もろもろ。せりふの切り返し、ギャグの乱発のリズム。
芝居では無理な描写というのは、たとえば瞬間接着剤でコンタクトレンズをつくる、一重の目を二重にして「かわいく」見せる、ゲロを燃やしてお好み焼きにするなどである。(いずれも松尾スズキがからんでいるところがおもしろい。)あるいはリストカットマニアの菊地凛子の手首のザラザラでわさびを下ろして見せるシーン。
全部が全部、日常を超えて、「芝居小屋」のなかのできごと、嘘を共有しにくる観客だけを相手に嘘はここまで肉体で表現できるという芝居のリズム、テンポで突き進む。
そして。
そういういわばでたらめの果てに、でたらめを通り越した現実が浮かび上がる。
「臨死体験」のリポートなんてうさんくさい。そんな本なんかうさんくさい。でも、そのうさんくささの底には、いま、ここで生きている人間の欲望がある。生きているんだから、何かしなくてはならない。世の中の役に立つというような立派なことだけでは生きていけない。嘘も、ごまかしも、だらしないことも全部含めて存在して、生きていることになる。でたらめって楽しい、ふざけているって楽しい。でたらめができる、ふざけることができる、というのは楽しい。
生きるというのは、結局は楽しくやること。
などという「結論」は、まあ、とってつけたようなものである。
私が書いているこの文の「そして。」以後は無視してください。そして、ただただ、芝居のリズムが映画を活性化させていることだけを楽しんでください。日本映画は、最近、とてもおもしろい。その楽しさを堪能できる作品だ。
ただし。
この映画は「地方都市」で見るよりも「東京」で見るべき映画だ。とてもブラックな映画で、あまりのブラックさに笑うしかないのだが、ブラックなものに対する笑いは地方では少ない。映画館でひとりだけ声を張り上げて笑うと(それが私だが)、ちょっと浮いてしまう。観客が何人も何人も声を上げて笑ってこそ楽しくなる映画だ。
(私は水曜日、レディースデイに見たせいか、観客に「おばさん」が多く、ほとんどブラックなシーンに無言である。笑わない。こういう作品はあまり見たことがないのだろう。笑い声がないとおもしろみが共有されない。もう一度、どこか、笑いがたえない映画館で見てみたい作品である。)
芝居が映画を越境する--そういう映画が増えた。メディアとしては映画なのだが、やっていることは芝居である。「舞妓Haaaaan!!!」「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」もそうである。3本の中では、この「図鑑に載っていない虫」が一番おもしろい。全編、芝居、芝居、芝居のリズムで突っ走る。そして芝居の欠点、こまかい表情や細部が見えないという部分は「映画」で突き破ってしまうのである。
芝居のリズムは冒頭の「黒い本」の編集室の描写からいきなり疾走する。女編集長がレール(?)の上の椅子ですいすい移動するシーン。そのせりふのリズム。「死にモドキ」を探し出して「臨死体験」を書けという無理な注文。うさんくさい世界をことばで出現させる力と役者の肉体の見せ方。(女編集長の、口の周りの青い痣の見せ方--その過去の描き方。)でたらめ(?)も役者の肉体を通すとほんとうになるという芝居特有のスピード感。
あるいは片桐ハイリがSMクラブの廃品を処分するシーン。「SMもやめてしまえばただの不燃ごみ」(だったかな? 燃やせるごみだったかな?)と3回くりかえして言う。それに対して「何回も言うなよ」と突っ込まれると、逆に「何か言いたいことがあるんじゃないの。はやく言ったら?」と突っ込まれるシーン。その他、もろもろ。せりふの切り返し、ギャグの乱発のリズム。
芝居では無理な描写というのは、たとえば瞬間接着剤でコンタクトレンズをつくる、一重の目を二重にして「かわいく」見せる、ゲロを燃やしてお好み焼きにするなどである。(いずれも松尾スズキがからんでいるところがおもしろい。)あるいはリストカットマニアの菊地凛子の手首のザラザラでわさびを下ろして見せるシーン。
全部が全部、日常を超えて、「芝居小屋」のなかのできごと、嘘を共有しにくる観客だけを相手に嘘はここまで肉体で表現できるという芝居のリズム、テンポで突き進む。
そして。
そういういわばでたらめの果てに、でたらめを通り越した現実が浮かび上がる。
「臨死体験」のリポートなんてうさんくさい。そんな本なんかうさんくさい。でも、そのうさんくささの底には、いま、ここで生きている人間の欲望がある。生きているんだから、何かしなくてはならない。世の中の役に立つというような立派なことだけでは生きていけない。嘘も、ごまかしも、だらしないことも全部含めて存在して、生きていることになる。でたらめって楽しい、ふざけているって楽しい。でたらめができる、ふざけることができる、というのは楽しい。
生きるというのは、結局は楽しくやること。
などという「結論」は、まあ、とってつけたようなものである。
私が書いているこの文の「そして。」以後は無視してください。そして、ただただ、芝居のリズムが映画を活性化させていることだけを楽しんでください。日本映画は、最近、とてもおもしろい。その楽しさを堪能できる作品だ。
ただし。
この映画は「地方都市」で見るよりも「東京」で見るべき映画だ。とてもブラックな映画で、あまりのブラックさに笑うしかないのだが、ブラックなものに対する笑いは地方では少ない。映画館でひとりだけ声を張り上げて笑うと(それが私だが)、ちょっと浮いてしまう。観客が何人も何人も声を上げて笑ってこそ楽しくなる映画だ。
(私は水曜日、レディースデイに見たせいか、観客に「おばさん」が多く、ほとんどブラックなシーンに無言である。笑わない。こういう作品はあまり見たことがないのだろう。笑い声がないとおもしろみが共有されない。もう一度、どこか、笑いがたえない映画館で見てみたい作品である。)