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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ナボコフ『賜物』(21)

2010-11-25 10:24:41 | ナボコフ・賜物
ナボコフ『賜物』(21)

 私は--いやはや、本当のところ--虚弱で、わがままで、透明でした--そう、水晶の卵のように透明でしたね。
                                 (37ページ)

 ナボコフのことばは、「透明」である。これは内部に「濁り」(不純物)がないという意味である。
 そういう透明な存在と世界との関係はどうなるか。

青みを帯びた夕闇が幾重にも層を織りなしている部屋の中でベッドに平らに横たわった私の内には、信じがたいほどの明るさが秘められていました--それは、黄昏時の空間に輝かしく青白い空が彼方まで帯のように延び、そこにどことも知れない遠くの島々の岬や砂州が見えるかのようで、さらに自分の軽やかなまなざしをもうちょっと遠くに飛ばすと、濡れた砂の上に引き上げられたきらめくボートや、遠ざかっていく足跡を満たすまばゆい水まで見わけられるのではないかと思えるような、そんな明るさでした。
                                 (38ページ)

 近くと遠くの関係がなくなる。消える。自己と自己の外の世界の垣根がなくなる。「透明」の反対は「不透明」ではなく、「枠」(垣根、区切り)というようなことばであらわすことのできる何かなのかもしれない。
 「枠」(区切り)がないから、それは「どことも知れない」場所である。しかし、それは「遠く」であることはわかる、という矛盾した世界である。「どことも知れない」なら、それは「近く」である可能性もあるのだ。私たちは「どことも知れない」ところを「遠く」と考える習慣があるが、これは、知らないのは行ったことがないから--つまり、「遠く」だからと考えるが、それは単なるずぼらな精神がそうさせるだけのことである。ナボコフのように、どこまでもことばにしてしまう作家の精神にとって、「どことも知れない」が「遠く」と簡単に結びつくはずがない。
 では、なぜ、ナボコフはここで「遠く」ということばを使っているのか。
 それにつづいて出てくる「さらに」が重要なのだ。

さらに自分の軽やかなまなざしをもうちょっと遠くに飛ばすと、

 「さらに」「遠く」。自己と自己の外の区切りはなく、この小説の主人公は、ベッドのなかにいながら、遠くを見る。そして、その遠くを見る視線を「さらに」遠くへ飛ばす。自己と自己の外との区切りはない、つまり、そこに距離がないにもかかわらず、その外のある一点と他の一点との間に「距離」はある。そういう「距離」を無意識の内に見てしまう。
 「どことも知れない」は、それがどこであっても構わないということを意味する。そして「さらに」は、そのどこであってもかまわない場所であっても、ナボコフは、そこに「距離」を、「空間」を見てしまう。「隔たり」を見てしまう。
 どこまでも「透明」なナボコフは、ある一点と他の一点を隔てる「透明」な「空間」(距離)に親和してしまう。(親和する--という動詞があるかどうかもわからずに、私は、ふと書いてしまったのだが……。)
 そして、この「親和力」が「青みを帯びた夕闇が幾重にも層を織りなし……」というような、美しいことばの光景になる。--美しい光景がことばになる、というより、美しいことばが光景を美しく調え、それからナボコフと親和する。


ロリータ、ロリータ、ロリータ
若島 正
作品社

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