監督 パク・クァンヒョン 主演 チョン・ジェヨン
私がいちばん気に入ったシーンは村の先生がテキスト片手にケガをしている米兵と会話するシーン。
「ハウ・アー・ユー?」
「ケガをしているんだから、ハウ・アー・ユー?はないだろう」(というような意味合い)
横の大人たちに。
「おかしいなあ、ハウ・アー・ユー?と挨拶したら、アイム・ファイン、アンド・ユー?と相手が答え、そのあとアイム・ファイン、で会話が終わることになっているのに、変だなあ」
大笑いしてしまった。
私は福岡のシネリーブル博多で18時20分からの回を見たが、ほかの人は笑わない。それでも、気にせず、大声で笑ってしまった。
私は「いい意味」で大笑いしたつもりだったが、しかし、映画を見ているうちに、この映画には大きな問題(瑕疵)があって、その問題というのは、実は、私が大笑いしたシーンに集約されていることに気がついた。(笑い続けて映画を見ながら、実は、私は最後の最後でとても不愉快になってしまった。不機嫌になってしまった。)
何が問題かというと、トンマッコルの人々は「子供のように純粋」なのはいいけれど、それはあくまで「大人」が見た「子供のような純粋さ」にすぎない。「子供のような純粋さ」が、この映画では理想化されていて、現実が置き去りにされている。
人が出会ったら挨拶する。それはそれでいいけれど、その挨拶は一種類ではない。そんなことは、どんな村に住んでいても同じだろう。ケガをしている人に対して「ごきげんいかがですか?」とは絶対に聞かない。「どうしたんですか? 痛くないですか?」と聞く。子供だって、それくらいこのは気がついている。
今、目の前に起きていることを無視して、挨拶は「ご機嫌いかがですか」「はい、元気です。あなたは?」「私も元気です」という挨拶をすると考える方がおかしいだろう。そういうことが「おかしい」ということから出発する必要があるのに、「理想の会話」どおりの会話が成立しないのはおかしい、奇妙だ、というところから出発してしまっては、何もかもが単なる空想に終わってしまう。
どんな戦争批判も絵空事になってしまう。
「どちらが攻めてきたんだ」「北だ」。「争いもなく村を統治する方法は?」「充分に食べさせることだ」。--さりげなく差し挟まれた会話は痛烈に北朝鮮を指弾している。そこに韓国の主張がストレートに出ている。
戦争批判、反戦映画の衣装をつけた、強烈な北朝鮮批判である。そういう批判が、ファンタジーを装って展開されるところに、私はなんだかうさんくさいものを感じてしまう。こんなふうに安直に戦争を批判しても、結局、どんな戦争回避策も引き出せないだろうと思う。
この映画自体、最後は、理想(子供のように純粋に生きる人々を守る)ために、その理想を愛する人が身を犠牲にするということで、「平和」を守る。
そんなことでいいのかな?
北朝鮮側の兵士も、韓国側の兵士も、そして米兵も「平和」の「聖地」を守り抜く。そのために何人かは犠牲になる。犠牲になることが、結局、美化されていないだろうか。「理想」のために、現実の人間、戦争で死ぬとき人は血を流して死んでいく、ということがないがしろにされていないだろうか。
死んでいく人に対して「ハウ・アー・ユー?」と挨拶しているようなところがないだろうか。「理想」のために死んでいく人は「アイム・ファイン」と答えるのが正しい会話であって、「痛くてうめいているのがわからんのか」と怒る人間は変だ、ということにつながらないだろうか。
倉庫に手榴弾が投げ込まれ、ポップコーンができるというすばらしいシーンなど、美しい映像がたくさんあるけれど、最後に北朝鮮の兵士、韓国の兵士が、アメリカの爆撃を誘導して死んでいくシーンを見て、私は、かなりぎょっとした。
「美しい理想郷」「理想の聖地」を守るために、「理想郷」から離れた場所で戦争をする、そこで犠牲になることで「聖地」を守る--これって、ブッシュがイラクでやっていることのパロディー? 「アメリカ民主主義」という「理想郷」を守るために、イラクを架空の敵地に仕立て上げ、そこを「誤爆」させる。「誤爆」を誘発するのは、もちろん米国本土からやってきた米兵である。もし、そこまで意識化されているのなら、この映画はほんとうに「反戦映画」と呼ぶにふさわしいけれど、違うだろうなあ。
「理想」を守るために犠牲になる--というような美談には気をつけよう。
私がいちばん気に入ったシーンは村の先生がテキスト片手にケガをしている米兵と会話するシーン。
「ハウ・アー・ユー?」
「ケガをしているんだから、ハウ・アー・ユー?はないだろう」(というような意味合い)
横の大人たちに。
「おかしいなあ、ハウ・アー・ユー?と挨拶したら、アイム・ファイン、アンド・ユー?と相手が答え、そのあとアイム・ファイン、で会話が終わることになっているのに、変だなあ」
大笑いしてしまった。
私は福岡のシネリーブル博多で18時20分からの回を見たが、ほかの人は笑わない。それでも、気にせず、大声で笑ってしまった。
私は「いい意味」で大笑いしたつもりだったが、しかし、映画を見ているうちに、この映画には大きな問題(瑕疵)があって、その問題というのは、実は、私が大笑いしたシーンに集約されていることに気がついた。(笑い続けて映画を見ながら、実は、私は最後の最後でとても不愉快になってしまった。不機嫌になってしまった。)
何が問題かというと、トンマッコルの人々は「子供のように純粋」なのはいいけれど、それはあくまで「大人」が見た「子供のような純粋さ」にすぎない。「子供のような純粋さ」が、この映画では理想化されていて、現実が置き去りにされている。
人が出会ったら挨拶する。それはそれでいいけれど、その挨拶は一種類ではない。そんなことは、どんな村に住んでいても同じだろう。ケガをしている人に対して「ごきげんいかがですか?」とは絶対に聞かない。「どうしたんですか? 痛くないですか?」と聞く。子供だって、それくらいこのは気がついている。
今、目の前に起きていることを無視して、挨拶は「ご機嫌いかがですか」「はい、元気です。あなたは?」「私も元気です」という挨拶をすると考える方がおかしいだろう。そういうことが「おかしい」ということから出発する必要があるのに、「理想の会話」どおりの会話が成立しないのはおかしい、奇妙だ、というところから出発してしまっては、何もかもが単なる空想に終わってしまう。
どんな戦争批判も絵空事になってしまう。
「どちらが攻めてきたんだ」「北だ」。「争いもなく村を統治する方法は?」「充分に食べさせることだ」。--さりげなく差し挟まれた会話は痛烈に北朝鮮を指弾している。そこに韓国の主張がストレートに出ている。
戦争批判、反戦映画の衣装をつけた、強烈な北朝鮮批判である。そういう批判が、ファンタジーを装って展開されるところに、私はなんだかうさんくさいものを感じてしまう。こんなふうに安直に戦争を批判しても、結局、どんな戦争回避策も引き出せないだろうと思う。
この映画自体、最後は、理想(子供のように純粋に生きる人々を守る)ために、その理想を愛する人が身を犠牲にするということで、「平和」を守る。
そんなことでいいのかな?
北朝鮮側の兵士も、韓国側の兵士も、そして米兵も「平和」の「聖地」を守り抜く。そのために何人かは犠牲になる。犠牲になることが、結局、美化されていないだろうか。「理想」のために、現実の人間、戦争で死ぬとき人は血を流して死んでいく、ということがないがしろにされていないだろうか。
死んでいく人に対して「ハウ・アー・ユー?」と挨拶しているようなところがないだろうか。「理想」のために死んでいく人は「アイム・ファイン」と答えるのが正しい会話であって、「痛くてうめいているのがわからんのか」と怒る人間は変だ、ということにつながらないだろうか。
倉庫に手榴弾が投げ込まれ、ポップコーンができるというすばらしいシーンなど、美しい映像がたくさんあるけれど、最後に北朝鮮の兵士、韓国の兵士が、アメリカの爆撃を誘導して死んでいくシーンを見て、私は、かなりぎょっとした。
「美しい理想郷」「理想の聖地」を守るために、「理想郷」から離れた場所で戦争をする、そこで犠牲になることで「聖地」を守る--これって、ブッシュがイラクでやっていることのパロディー? 「アメリカ民主主義」という「理想郷」を守るために、イラクを架空の敵地に仕立て上げ、そこを「誤爆」させる。「誤爆」を誘発するのは、もちろん米国本土からやってきた米兵である。もし、そこまで意識化されているのなら、この映画はほんとうに「反戦映画」と呼ぶにふさわしいけれど、違うだろうなあ。
「理想」を守るために犠牲になる--というような美談には気をつけよう。