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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-1)

2017-05-01 00:00:00 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
1 *(運命が--ひとつの消去法がぼくを喰いつくし)

 「入江のほとり」。「*」(209 ページ)だけの断章がいくつもある。区別するために一行目を( )に入れてタイトルがわりにしておく。(目次に倣った。)

運命が--ひとつの消去法がぼくを喰いつくし
影だけがそこにとどまっている
彼方 夜の海
その方へぼくの影はひとりさまよい行こうとする

 「運命」を「ひとつの消去法」と言い直している。「運命」とはあらかじめ定まっているものだろうか。その定まっているものを「消去」していく。「達成」ではなく、「消去」。ここには、ひとは「死ぬ」運命を生きているということが前提として考えられている。「死」へ向かって、いのちを少しずつ「消去」していく。「消去」は、また「喰いつくす」という「動詞」で言い換えられている。「喰う」だけではなく「つくす」というところに力点がある。「いのち」が「無」になる。それが「死」なのだろう。
 このとき「影」とは何だろう。
 「ぼく」は「喰いつく」され、「消去」されるが、「影」は残っている。「いのち」を「肉体」とすれば、「影」は「精神/ことば」かもしれない。
 それは「ぼく」から離れて、自由になり、海の彼方へ「さまよい行く」。「さまよう」よりも「行く」という動詞に力点がおかれている。
 そう読みたい。
 この詩を書いたとき、嵯峨は青春ではない。七十三歳である。だから「死」も意識されているのだろうが、「夜の海」の「彼方」へ「行く」というロマンチックな表現に、青春が残っている。いや、それは青春の抒情そのものという感じがする。



2 入江のほとり

もを何年も昔から
ぼくの小さな船着場にやつてくる船はない
血の岸で草むらの小さな闇が囲み終つた
そこに死は簡単にやつてくる

 「ぼくの」という限定が、「実景」ではなく「心象風景」であることを語っている。「血」「闇」「死」が静かに結びついている。
 そのあと、

他の岸は大雪だ
やわらかに全てが忘れられている

 「ぼく」と「他(人)」が「対比」されている。「雪」は「冷たい」。そこにも「死」を感じ取ろうとすれば感じ取れるかもしれないが、ここではたぶん「血/赤」に対して「雪/白」が対比されているのだろう。
 この対比のあと、

ただ一軒の安宿(ホテル)にいま灯がはいつたばかりだ

 この一行が、「ぼく」の「心象」に対して、呼応する。何か、誘いのようなものがある。
 「灯」は「やわらかな/赤」い色をしていると思う。
 そこには「ぼく」と通じる誰かがいる。
 そういうことを想像しながら読んだ。
嵯峨信之全詩集
クリエーター情報なし
思潮社

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