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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

リッツォス「証言C(1966-67)」より(3)中井久夫訳

2008-12-20 00:17:53 | リッツォス(中井久夫訳)
活動不能  リッツォス(中井久夫訳)

この家でのおれたちの暮らしはこうだ。
家具付きの部屋。暗い廊下。
晒さぬ布。木食い虫。氷のように冷たいシーツ。
おれたちの寝台に仰向けに寝ている誰とも分からぬ他人。
ゴキブリが台所から寝室に走って行った。
ある夜、誰かが玄関でわれわれに開けろと言った。
村の女が暗闇の中で何か言った(確かにおれたちのことだった)。
しばらくあって、玄関の扉が軋るのを聞いた。足音も人声もしなくて。



 内戦。逃れてきて、隠れている家だろうか。どこへも行けず、ただ隠れている。そのときの「おれたち」の暮らし。「おれたち」が何人かはわからない。何人いても、そのひとりひとりが独立している。「他人」である。

おれたちの寝台に仰向けに寝ている誰とも分からぬ他人。

 それはたとえ知っていても「知らない」人間である。知っているからこそ「知らない」人間なのかもしれない。何かあったとき、「おれたち」は全員、他人である。他人であることによって、生き延びる。そういう緊迫感と孤独がこの詩の中にある。

 この詩の訳は、この形になる前に別の形をしている。何か所か推敲されてこの形になっているのだが、一番大きな変化は1行目である。中井は、最初、

この家でのおれたちの暮らしはこうだと彼は言った。

 と訳している。そして、「と彼は言った」を消している。この訳はとてもおもしろい。「この家でのおれたちの暮らしはこうだ。」という行では、誰が言ったのかわからない。「おれたち」が言ったのか。「おれたち」が声を揃えて言うことはないから、「おれたち」のなかの誰かが言ったことになるのだが、「彼は言った」という主語と述語が消されると、「彼が言ったこと」が「おれたち」全員に共有されている印象を引き起こす。
 「彼は言った」という主語、述語があるときは、それはあくまで「彼」の主張であって、ほかの「おれたち」はそうは思っていないということも考えられる。
 この作品の中で、省略される形で書かれている「彼」は、そんなことは望んでいない。誰ものか(この家にいる全員が)、同じように思っていると感じたがっている。それが、対立者からのがれ、隠れている「仲間」の思いである。
 しかし、その「団結」は、同時に、いつでも「知らない」と言わなければならない「団結」でもある。仲間であればあるほど、「知らない」と言わなければならない。敵にであったとき、「知らない」ということが他の仲間を守る唯一の方法である。自分を犠牲にしても、仲間を守る。そういう決意が隠されている孤独。

 「彼は言った」を消すことで、その孤独が、より強く共有されるのだ。そして、その孤独の共有が、最後の2行の不安を生々しくする。「活動不能」--ただ隠れていることしかできない不安を生々しくする。


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