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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

廿楽順治『化車』(4)

2011-05-26 10:33:44 | 詩集
廿楽順治『化車』(4)(思潮社、2011年04月25日発行)

 廿楽の詩は「いかがわしい」「うさんくさい」。そして、それを「いかがわしい」「うさんくさい」というのは、廿楽のことばを理解するとき、いつもとは違う「肉体」をつかって理解するからである。いつもとは違う「肉体」へ廿楽のことばは響いてくる。
 「草濠」の【工事中】の書き出し。(この詩も行末が尻揃えになっているが、行頭を揃えた形で引用する。)

ぜんしんがもうにほんごのいうことをきかない
おれのしたことのどこがわるい
せむし
であることをかくさない
ご近所に
とりかこまれてなぐるけるのくらしぶり
そうかわからなけりゃ
からだでおぼえさせてやる
お年寄りだから
酔ってなぐるほうもかなしい

 「そうかわからなけりゃ/からだでおぼえさせてやる」とは乱暴な論理だが、たしかに「からだ」が覚えるものがあるのだ。それは「理解」や「納得」ではない。理解も納得もしない。けれど「からだ」が反応してしまう。「頭」は「からだ」の反応は間違っていると主張する。けれど「からだ」は動かない。私たちは「頭」とは違うもので動いてしまうのである。そういう部分へ廿楽のことばはするりと入り込む。「いかがわしい」「うさんくさい」は、ある意味では無防備な「からだ(私は「肉体」という表現をつかうのだけれど)」へ廿楽のことばが入ってきて居すわることへの、反発のようなものかもしれない。反発しながらも、それに反論ができないものが「からだ」のなかにある。
 「ぜんしんがにほんごのいうことをきかない」というのはどういうことか。たとえば、私は、この「ぜんしん」の「持ち主」を中国人とか韓国人と仮定して読む。日本が中国や韓国を侵略し、暴力をふるっていた時代。彼は、一度は「にほんご」の命令に従った。でも、いまは「にほんご」の命令など聞きたくない。「にほんご」に「からだ」が拒絶反応を起こしている。--こういうとこは、多かれ少なかれ、だれもが経験することかもしれない。ある人のことばが、いやでいやでたまらない。「ぜんしん」がそのひとの「ことば」を拒絶する。聞かない。身動きもせず、ただじっとしている。
 そして、そういう反応をする人間は、ときとして殴られる。「そうかわからなけりゃ/からだでおぼえさせてやる」という次第だ。そして、そのとき、殴られる人が無力な老人だったら、どうなるだろう。「お年寄りだから/酔ってなぐるほうもかなしい」。これは、殴る人間の勝手な言いぐさだが、そういうことはある。誰かが誰かを殴る。そのとき、殴られる人間が悲しいのはもちろんだが、殴る人間も悲しい、やりきれないということはあるのだ。殴る理由はあったかもしれないが、それはほんとうに殴らないといけないことかどうかはわからないし、無抵抗なものを暴力で支配するというのは、相手が無抵抗であるとわかればわかるほど、いい気もちはしない。--これも、まあ、いいかげんな言いぐさだねえ。
 
 ということは、ということにしておいて。

 この作品の不思議なところ(そして、それは廿楽の他の作品にも通じることだが)。
それは「主語」がするりと入れ代わることだ。これは私の「誤読」であって、違う視点で読めば「主語」は一貫しているかもしれない。廿楽は「主語」を一貫させて書いているというかもしれないが……。
 「ぜんしんがもうにほんごのいうことをきかない/おれのしたことのどこがわるい」と言っているのは中国人(韓国人)である。「せむし/であることをかくさない」。この「せむし」はほんとうの肉体か、「比喩」かよくわからない。「異形」(異なった存在)であることを隠さない。同化しない、ということをあらわす「比喩」かもしれない。「比喩」だとしたら、そこに「せむし」ということばを持ってくる感覚(肉体感覚、からだ感覚)が廿楽の特徴ということになる。--ともかく、ここまでは「主語」は「殴られる人」である。「殴られる人」であるが、単に受け身ではなく、「おれのしたことのどこがわるい」「……であることをかくさない」と自己主張もしている。ひとりの「主語」のなかに、動きがふたつあることになる。「にほんご」にしたがわない、動かないという消極的(?)な動きがある一方、主張するという積極的な動きがある。
 「そうかわからなけりゃ/からだでおぼえさせてやる」の「主語」は一転して「殴る人」である。「にほんごのいうことをきかない」人に対して「にほんご」で命令しているひとである。「日本人」ということになる。彼は言う(命令する)だけではなく、言うことを聞かない人間を殴っている。殴りながら「お年寄りだから/酔ってなぐるほうもかなしい」とからだで感じている。ひとりの「主語」のなかにも動きがふたつあることになる。暴力で支配しようとする動きと、支配しながらかなしみを感じる動きがある。
 それぞれの「主語」のなかの動きは、どこを起点にしてかわるのか、よくわからない。ふたりの「主語」にしても、「主語」自体が隠されている(書かれていない)ので、区別がはっきりとはわからない。「頭」で「主語」を確認することができない。「中国人」がこれこれのことを言った。あるいは「日本人」がこれこれのことをした、と書いてあれば「主語」を「頭」で理解できるがそれがないから、ぼんやりと「肉体」で、あ、ここには立場の違う人がふたりいるんだなあ、それは「中国人」と「日本人」かもしれない、と思うだけである。
 曖昧なのは「主語」だけではない。「ぜんしんがもうにほんごのいうことをきかない」。これは「中国人」の思いであるとして、それを「中国人」は「声」に出して言ったのか。声には出していない。でも「おれのしたことのどこがわるい」。これは、どうだろう。想っているだけなのか。それとも「声」に出して言ったのか。「日本人」の思いも同じである。「そうかわからなけりゃ/からだでおぼえさせてやる」。これは「声」に出して言ったことばのように感じられる。しかし、ほんとうは思っただけかもしれない。「お年寄りだから/酔ってなぐるほうもすごくかなしい」。これは、まさか「声」に出してはいっていないだろうと私は思うが、逆に「声」に出しても、それはそれで非常に痛切かもしれないと、急に思ったりする。
 「主語」もなあいまいなら、「ことば」が「声」に出されたかどうかもあいまいである。それでも、ここに「ドラマ」があると感じるのはなぜだろう。わからないことだらけ、りかいしていないことだらけなのに、はっきりと「ドラマ」を感じるのはどうしてだろう。何かが動いていると感じるのはどうしてだろう。
 ことばがある、ということがあいまいではないからだ。なにかしらのいがみあいがあり、そこでことばが動いているということはあいまいではない。ことばが動き、そのことばを追うとき、きっと「肉体」が動いているのだ。
 これは、路傍で腹を抱えてうずくまる人間を見たときの「肉体」の反応に似ている。うずくまる人は何もいわない。けれど、その姿勢、そしてもれてくる声にならない声を聞くと、私の肉体は、あ、この人は腹が痛いんだとわかる。私の腹の痛みではない。私の肉体の痛みではない。けれど、わかる。同じように、ことばを「聞く」とき、目で「肉体」を見たときのように、私の「肉体」のなかで何かが反応して、即座に何かを理解するのである。「ぜんしんがにほんごのいうことをきかいな」。あ、このひとは「にほんご」に反発を感じている人なのだ……、という具合に。
 そういう具合に読者に働きかけることばをつづらは「わざと」書いているのだ。

 廿楽は「主語」をあいまいにする。また感情の変化、行動の突然の変化も、理由もなしにことばにしてしまう。理由はなくて、ただことばの「手触り」というか、「感触」がある。その「感触」が、読者(私の--というべきか)の「からだ」の眠っている部分を揺り動かす。「あいまいさ」を利用して「肉体」に入ってくるから「いかがわしい」「うさんくさい」ということばで、私は「防備」してしまうのかもしれない。





たかくおよぐや
廿楽 順治
思潮社

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