「現代詩手帖」12月号(33)(思潮社、2022年12月1日発行)
草野早苗「訪う者」。
訪う者は
烏瓜のランプを作りたいと言う
森に行って烏瓜を集め
もう私は何もいらないので
烏瓜をくりぬいて
小指より小さな蝋燭を立て
訪う者の光を移して
心優しい人々の家の前に
ひとつずつ置いた
「もう私は何もいらないので」で、私は少しつまずいた。「何も」と「わざわざ」言ったのはなぜなんだろうか。「訪う者の光を移して」にもつまずいた。「心優しい人々の家」の「心優しい」にもつまずいた。
「小指より小さな蝋燭を立て」の「小指より小さな」は「烏瓜のランプ」をつくったひとでないと言えないことばだろうと思って、こころが静かになった。
私は、こんなふうに読み返してみた。
訪う者は
烏瓜のランプを作りたいと言う
森に行って烏瓜を集め
もう私はいらないので
烏瓜をくりぬいて
小指より小さな蝋燭を立て
人々の家の前に
ひとつずつ置いた
近藤洋太「エリザベス 二〇一五年十二月 望月櫂」。
男子から告白されたことは何度かある
でもボクは恋愛感情が湧いてこなかった
本当のことを言えば
夢のなかでボクは男になって女の人を愛していた
顔の分からない女の人を
ネットで調べたらトランスジェンダー男性
忌まわしい言葉に思えた
「忌まわしい言葉に思えた」のは、望月櫂がそう思ったのか。近藤が、そう思わせたかったのか。この区別がむずかしい。
草野の詩で「訪う者の光を移して/心優しい」を削除したい気持ちになるのは、これに似ているなあ。
ことばを動かしているのはだれ?
杉本真維子「八月の自棄(じき)」。
わたしに父が
いたのですか
わたしに父が
いたのでしたっけ
十年はざんこくに過ぎて
もうはるかとおく
一日のほとんどを
忘れて過ごしている
このとき「忘れている」のは「父」のことか、それとも「十年」のことか。どちらかわからない。私は、かなり長い間、そのことを考えた。
これは最終連で、こう言い直されている。
荷造りの紐を力任せにひっぱって
息をつく
この奇妙な力の入り具合
不意に臓腑をにぎられたような
カッとひらく焦りと命の燃えさし
ジーキィジーキィ 腹の底から蝉があえぐ
八月のせいにして
そそくさと買い物に出かける
「この奇妙な力の入り具合」は、主観か、客観か。「不意に臓腑をにぎられたような」も主観か客観か。というよりも。このとき杉本は「杉本の肉体」を描写しているのか、それとも「父の肉体」を描写しているのか。わからないね。いや、わからないというよりも、あ、杉本は「杉本の肉体」のなかに「父の肉体」を感じているのだと思った。
荷造りをするときの「父の肉体」に「杉本の肉体」が重なる。これは、しかし、あたりまえというか、「荷造りをする肉体」というのは、どんな人間の肉体にも共通する。違うことはできない。それなのに、「共通する」と感じ、それをことばにしてしまう。
と書けば。
一連目で「忘れて」いたのが「父」だということがわかる。たいていの場合、忘れているが「一日のほとんど」の時間「を/忘れて過ごしている」。しかし、何かあると、ふと思い出す。荷造りをすると、その荷造りをする肉体のなかに、忘れているものがふいにあらわれる。それは「忘れたい」ものだと気がつく。しかし「忘れられない」のだ。「意識」ではなく「肉体」がかってに思い出してしまうからである。
このあたりの「動き」を近藤の「忌まわしい言葉に思えた」と、まるで他人のドラマとして書いている。望月櫂という人が、近藤にとっては「他人」なのだから、それはそうなるのしかないのかもしれないが、他人だとしても、ことばを動かせばそこに杉本の書いている「父と子」のような関係が生まれるのが「文学」というものではないのか。「ことばの肉体」が「肉体のことば」と交錯し、見分けがつかなくなるのが「文学/詩」の楽しみじゃないかな、と私は思う。
そうでなければ、「わざわざ」他人を書く必要はない。「他人」こそが「私」なのだ。道でだれかがうずくまって、腹を抱えて、うなっている。「あ、この人は腹が痛いんだ」と感じてしまう。「他人の肉体」なのに「自分の肉体」だと思ってしまう。この瞬間の、越権というか、超越というか。その瞬間の「肉体とことばの一体感/ことばと肉体の一体感」。「わざと」ではなく、「わざわざ」詩を書くのならば、それを書いてほしいなあ。そういうものを読みたい。
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