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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

柏木麻里「斥力、遠さにふれる」

2007-06-14 22:22:54 | その他(音楽、小説etc)
 柏木麻里「斥力、遠さにふれる」(「AC2」8、2007年03月31日発行)。
 柏木麻里と小島郁子のインスタレーション「斥力、遠さにふれる」(2006年03月04日-21日、国際芸術センター青森)に関するエッセーを、柏木が書いている。展覧会そのものを私は見ていない。私がこれから書くのは、あくまで柏木のエッセーに関する感想である。
 とてもおもしろい部分があった。

 私からみて、安藤郁子の作品は、肌のような敏感な表面の周りに、今ここにはない時間や思いが呼びよせられて漂っているような、立体からはみだしてゆくものがある。それは受けとる人によって、物語であったり、感情であったり、記憶であったり様々であろうが、何かそうした「空気」がある。その、安藤作品から発したものと、私の詩からも漂いだしてゆくものが、触りあう。

 ここに書かれている「空気」ということばに、私は見ていないインスタレーションを見たような気がした。「空気」ということばで、インスタレーションの現場に立ち会っているような気持ちになった。
 「空気」ということばのまえに、柏木は「物語」「感情」「記憶」ということばをつかっている。そうしたことばをつかいながら、なおそれでは言い表わせないものを感じて、「空気」と言い直している。
 「空気」。
 このことばを柏木は、さらに言い直している。

 安藤作品も私の詩も、共通しているのは、それが「姿」であることだ。姿は「外」を求めてしまう。ものが在る限り、そこには否応なく「外」が生まれる。内と外に揺り動かされ、その間にある皮膜には、感情が漂う。

 「空気」は、柏木のことばにしたがえば、柏木の詩、安藤の作品の、それぞれの「姿」の「内」と「外」のあいだにあることになる。そして、その「あいだ」から漂いだしてくるものでもある。
 漂いだしてきたものは、しかし、その「漂い出し」のなかに、それが生まれてきた「場」、「内」と「外」の拮抗する「場」、分離不能の「場」をもっている。
 そうした「場」があるがゆえに、二人の作品は近づきながらも絶対にひとつにはならない。ひとつになる(融合する)ことを拒否して、新しい「内」と「外」をつくり出す。会場全体、展示場という空間を「姿」に変える。展示場という「空間」が、そのときインスタレーションという「空気」、創作の「場」になる。
 ひとつにならない、融合してしまわない--そのことを指して、柏木は「斥力、遠さ」と呼んでいるのだろう。
 そして、そうした「場」に私たちが行き、その「空気」を呼吸するとき、「斥力、遠さ」が私たちの肉体のなかで混じり合う。私たち自身が「場」になり、「空気」になる。その瞬間に、いままで存在しなかった詩(作品)、つまり柏木のことば単独ではありえなかった詩、柏木の立体だけでは存在しなかった何かが誕生する。詩が詩になり、立体が立体になる。
 インスタレーションは二人の作家が出会うことで成立するのではなく、その二人がつくりあげた「場」へ観客が行き、その「空気」を呼吸することで、はじめて成立する芸術なのだろう。
 会場へ出掛け、その「空気」を体験したかった、と思った。体験できなかったことを残念に思った。


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