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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

坂多瑩子「再会」

2007-06-13 15:28:40 | 詩(雑誌・同人誌)

 坂多瑩子「再会」(「ぶらんこのり」3、2007年04月30日発行)。
 坂多の作品は、最近、どれもこれもおもしろい。どこがおもしろいのか、説明するのがなかなかむずかしい。「再会」の全行。

とある日
犬と犬が出会った
吠えなかったけれど
しっぽも
ふらなかった

同じ母親の乳ぶさに
ぶらさがっていたことなど
とうに忘れて
犬になりさがって

一匹は思い
やはり犬になっていたか

もう一匹の犬は思い
お互い
はじめから存在していなかったように
横を向いた
今日
わたしは犬である
わたしにえさをくれた
子どもたちが
赤や青のクレヨンで
わたしの
目や耳の傷ぐちを
ひろげていく
ゆがんだ顔にしあげていく
ごらんよ
この犬
だれかが叫ぶ
茶色の巻き毛に
日が
とっぷりと暮れた

 私が一番魅力を感じるのは次の6行。

子どもたちが
赤や青のクレヨンで
わたしの
目や耳の傷ぐちを
ひろげていく
ゆがんだ顔にしあげていく

 ここに何がある。「過去」がある。「子どもたちが」と坂多は書いているが、この「子どもたち」に私は坂多自身、彼女の「過去」を感じるのだ。子どものとき、たとえば小学校の図画の時間、犬の絵を描く。へたくそである。(ごめんなさい。)子どもの描く犬は一生懸命描けば描くほどゆがんでゆく。そんな絵を描いてしまった……。
 そうした記憶が、ふっと、今、ここによみがえってくる。--そういう瞬間は、誰にでもあるものだと思う。いつ、そういう瞬間がよみがえってくるか、はもちろん人によって違うが……。
 坂多の詩がおもしろいのは、そういう「瞬間」をあれこれ説明しない。ただ、よみがえった「過去」だけをほうりだすようにして描く。
 それに先立つ「犬になりさがって」「やはり犬になっていたか」ということばをじーっとみつめていると、「いま」が見えてくる。なつかしい(?)人に出会って、あるいは快く思っていなかった(?)人に出会って、憎まれ口のように、ふっと、そんな「常套句」がこころを犬のように走っていく瞬間というものがある。そのとき、そう思う「わたし」もやっぱり相手からみれば「犬」なんだろう……。
 そういう「いま」の瞬間に、子ども時代に犬を描いたことを思いだす。へたくそに。しかし、そのへたくそさのなかには、へたなりの真実があった。何かを「ゆがんだ」ものに描いてしまうというのが人間のどうしようもない「能力」であるという真実が。
 そうした真実、「過去」が「いま」の瞬間にふっとあらわれて、現実を洗ってゆく。現実を洗い流して、ここから「未来」が始まる。そういう感じがするのだ。「犬になりさがって」「やはり犬になっていたか」というようなことばが、なんといえばいいのだろうか、中和していく。おだやかになってゆく。そのふいに噴出してくる「過去」によって「いま」のとげとげしい感じが消え、ゆったりと肉体のなかに吸収されてゆく。そういう感情の吸収の仕方が人間にはある。そのことを坂多のことばは、ゆったりと感じさせてくれる。
 この感覚が、たぶん私は好きなのだ。



 写真は、我が家の犬と(赤い首輪)、かつての遊び友だちの犬。長い間、沖縄に行っていたが、また帰ってきた。「再会」である。向こうの犬は我が家の犬がもっているおもちゃに関心がある。関心かあるのを知っていて、我が家の犬は「かしてあげないよ」と無言で語っている。犬にも過去があり、現在があり、未来がある。坂多瑩子の詩とは関係ないのだが……。


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