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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

リッツォス「手でくるんで(1972)」より(8)中井久夫訳

2009-02-08 00:00:00 | リッツォス(中井久夫訳)
兵役忌避    リッツォス(中井久夫訳)

この国の貧しい郊外に歯科が増えた。
薬局も。棺桶屋も。夕方は
ペンキの剥げかけて反ってる戸の上の緑の門灯である。
光の長い帯である。
夜っぴて水が蛇口から出っ放しだ。カラス街の裏通り。
花屋の前でも床屋の前でも。誰だ、
ゆっくりと靴をみがいてるのは。その戸の前で。
今からホールにはいろうとしているみたいに。
はいったら誰もいなくて、
大理石の床が
ワックスかけてぴかぴかだ。
異様ななじめぬ世界だ。
自分の足音も異様で耳ざわりだ。自分の動きもぎこちない。
第一、窓がない。沈黙もない。鍵もなく、ハンカチもない。



 兵役を忌避した男が見た風景かもしれない。兵役を忌避したとき、何が見えるのか。街の風景は同じでも、自分が何かかわったことをすれば、その変化にあわせて、見えるものも違ってくる。
 「異様ななじめぬ世界だ。」は最後の方に出てくることばだが、それではそれ以前の世界は「なじめる世界」かといえば、そうとは限らないだろう。郊外に増えた歯科、薬局、棺桶屋--そういうものが目につくのも、それがなじめぬ世界だからだろう。特に「棺桶屋」が増えたことに対して「なじめる」という感覚を持つひとは少ないだろう。ほんとうは「増えた」のではなく、こんなにたくさんある、ということに気がついただけかもしれない。違って見えてくる、とは、そういうことをさす。
 世界になじめないとき、それは自分自身に対してもなじめないということである。兵役を忌避しなければ「なじめる」かどうかはわからないが、何か特別なことをしてしまったということが「なじめなさ」を引き起こしている。自分できめたことだけれど、まだ自分で受け止めることができない。その受け止めることのできない自分と和解するために、ことばがある。ことばにする。そうやって反復することによって、自分自身に「なじみ」をつくりだそうとしている。
 最後の「鍵もなく、ハンカチもない。」が、なんとも切実だ。ぐい、と肉体に迫ってくる。その直前の「沈黙もない。」ということばが、いったん、世界を切断するからだろう。世界と途切れ、孤独にほうりだされる。その瞬間に、「鍵もなく、ハンカチもない。」という「事実」、「現実」に引き戻される。ここから、男は徐々に自分にかえっていこうとしている。

 この詩も、とても映画的だ。カメラが郊外から街中へ自然に移動してきて、ホール(ダンスホールか)へ入ろうとする。その動きにあわせ、外から室内へ入るという動きにあわせ、視線は、外から自分自身へと向きを変える。自分の内部へと入り込む。そこで自分を見つける。とても自然な動きだ。


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