監督 ディクティナ・フード 出演 クレア・フォイ、ベネディクト・カンバーバッチ、ショーン・エバンス

イギリス映画だなあ、と思う。イギリス個人主義、イギリス人とことばの関係が非常によくわかる映画だと思う。--と言っても、私は映画でしかイギリスを知らないのだが、イギリス映画を見るたびに思うことが、この映画でも起きる。
事実というのは「ひとつ」なのか。「ひとつ」であると仮定して、では事実を証明するのは何か。何によって事実と認めるのか。「物証」というものがあるが、それはだれもが確実に確認できるものとは限らない。多くの人は「物証」を直接確認しない。「ことば」によって確認する。たとえば、だれかがだれかをナイフで刺して殺す。その物証は裁判でも開示される。しかし、刺すという行為までは再現できない。ことばで「刺した」と補い、人は、その「ことば」を信じる。「ことば」で証明できない(記録できない)なら、それは存在しない。
こういう「ことば」の意識がイギリス人には非常に強い。
というのは、あまりにも抽象的な話になるし、この映画とも違ってくるので、この映画に則していうと。
イギリス人は、たとえ何かを「目撃」しても、目撃された人がその行為を自分のことばで語らないかぎり、それは存在しないと考える。ある行為をした人が、その行為をしたと自分のことばで語る(真実を告げる)ことで、行為は「事実」になる。そういう考え方をする人間である。
たとえば、この映画のなかで主人公の兄弟の母が階段から突き落とされたという話か出てくる。誰が突き落としたか。兄は「弟だ」と最初に言う。でも、弟は「兄だ」と言う。兄が「私だ」と認める。ことばで認めると「事実」になる。ことばで認めないかぎり、それは事実ではない。
で、この映画のラストシーンなのだが。
男の側に問題があって子供のできなかった夫婦。妻がほかの男とセックスをする。妊娠し、子供が生まれる。誰の子供だろう。父親は誰だろう。夫は、弟が父親かもしれないと感じている。弟が家の中に転がり込んできてからさまざまなことが起きたからだ。あらゆることの発端は弟だからだ。
ところが、子供を抱いて家へ帰る途中に、友人夫婦に出会う。友人(男)の方が近づいてきて、赤ん坊を抱く。「可愛い子だ」としきりにほめる。そのときの表情。それは他人の子供を見るときの顔ではない。特に、男が見せる顔ではない。女は、ときどき、こういう母性本能を丸出しにして子供を抱くことがあるが、それは女の「産みたい」という欲望と関係しているかもしれない。「産む」という行為をとおして、女は誰でも「母親」になれる。男は「産む」ことができないので、自分の子供と他人の子供では何か対応が違ってきてしまう。だいたい、だれかが赤ん坊を抱いているとき、「抱かせて」と最初に言ってくるのは女で、夫婦でいっしょにいるとき、男の方から「抱かせて」ということは非常に少ない。男が他人の赤ん坊に対して無防備で近づくことはない。
この瞬間、主人公(ベネディクト・カンバーバッチ)は、この男が父親なのだと「わかる」。このときのベネディクト・カンバーバッチの表情が非常にいい。「わかる」が、何もできない。問いつめることができない。誰が父親であるかを不問にして、妻が子供を産むことを支えた。そのことをいまさら裏切ることはできない。妻か友人が、「この子は父親は友人である」と言わないかぎり、それは「事実」にはならない。「わからない」ことになる。
妻の方も、「あ、父親が誰であるか、わかってしまった」と「わかる」。夫が真実に気づいたことが「わかる」。しかし、どうすることもできない。夫婦はそれまで並んで歩いていたのだが、一歩、二歩、妻が先を歩く。顔を見られないように。目が合うと何か言ってしまうそうだ。
夫は、その斜め後ろから、まるでその位置からでも妻の顔が見えるかのように、うかがうような、視線で歩く。
これから夫婦は、その「秘密」を抱えて生きていくことになる。「秘密」というのは、言い換えると「事実をことばにしない」ということでもある。「ことば」にしないかぎり、友人が子供の父親、妻は友人とセックスしたということは「事実」にはならない。「秘密」になる。--誰もが知っている。けれど「秘密」なのだ。
その「秘密」をプライバシーと言い換えると、イギリスのプライバシーの感覚がよくわかる。個人が自分から公開しないことはすべてプライバシーである。公開していないのなら、誰かに見られても、それを「ことば」で否定できる。その否定に対して、他人は反論できない。
映画にもどって言えば、「あなたが木の影でセックスしているのを見ました」と妻は夫の友人の妻に言うことはできない。また夫の弟に対しても言えない。さらに、弟は兄の妻に対して「あなたが兄とは違う男と私の部屋でセックスしているのを見ました」とは言えない。兄に対しても、そういうことは言わない。それは当事者が言わないかぎり、ことばで「証言」しないかぎり「事実」にはならないからだ。
この不思議な「論理」が、映画のスピード(影像のスピード)を、非常にゆっくりとさせる。観客が影像を「ことば」にして「肉体」の内部に取り込むのによりそうにように動く。人はきちんとした文章にならないことばをしばしば口にする。ほとんどが文章にならない断片を口にすると言い換えてもいいかもしれない。その「断片」が観客の「肉体」のなかで育つのを、影像がそっと後押しする感じだ。妻がほかの男とセックスしているとき、その部屋につながる階段を誰かがのぼっていく、誰かを映さず階段だけを映す影像の、ゆっくりした足どり--それがおもしろい。
いま、「足どり」と書いて思い出すのだが、この映画は「足どり」の映画でもある。「歩く」範囲で起きることがらでもある。車も出てくるが、それは少ない。ほんとうに遠くへ行くときだけだ。人はもっぱら歩く。イギリス人は歩くのが好きだ。歩きながら、頭の中で、さまざまなことを「ことば」にして整えるのかもしれない。自分だけのことばにするためには、「ひとり」で「歩く」ということが必要なのかもしれない。--と考えると、また少しイギリス人がわかったような気持ちになる。
という「ことば」とイギリス人の関係とは別にして。
田舎の風景、その緑。あ、これもイギリスだねえ。イギリス映画だねえ。アメリカ映画にはこの緑は出て来ない。湿気と黒を含んだ緑。少し日本(特に北日本)の緑に似ている。島国特有の色なのかもしれない。私は、この緑がとても好きである。アメリカ映画のように大雑把ではないし、アジア映画(一括りにしてはいけないのだろうけれど、たとえば中国、韓国映画)の熱い緑とも違う。イギリスの緑は黒を含んでいるのに、アジアの緑は赤を含んでいる印象が、私にはある。その静かな緑を、カメラはていねいに描いている。 (2014年03月12日、KBCシネマ2)

イギリス映画だなあ、と思う。イギリス個人主義、イギリス人とことばの関係が非常によくわかる映画だと思う。--と言っても、私は映画でしかイギリスを知らないのだが、イギリス映画を見るたびに思うことが、この映画でも起きる。
事実というのは「ひとつ」なのか。「ひとつ」であると仮定して、では事実を証明するのは何か。何によって事実と認めるのか。「物証」というものがあるが、それはだれもが確実に確認できるものとは限らない。多くの人は「物証」を直接確認しない。「ことば」によって確認する。たとえば、だれかがだれかをナイフで刺して殺す。その物証は裁判でも開示される。しかし、刺すという行為までは再現できない。ことばで「刺した」と補い、人は、その「ことば」を信じる。「ことば」で証明できない(記録できない)なら、それは存在しない。
こういう「ことば」の意識がイギリス人には非常に強い。
というのは、あまりにも抽象的な話になるし、この映画とも違ってくるので、この映画に則していうと。
イギリス人は、たとえ何かを「目撃」しても、目撃された人がその行為を自分のことばで語らないかぎり、それは存在しないと考える。ある行為をした人が、その行為をしたと自分のことばで語る(真実を告げる)ことで、行為は「事実」になる。そういう考え方をする人間である。
たとえば、この映画のなかで主人公の兄弟の母が階段から突き落とされたという話か出てくる。誰が突き落としたか。兄は「弟だ」と最初に言う。でも、弟は「兄だ」と言う。兄が「私だ」と認める。ことばで認めると「事実」になる。ことばで認めないかぎり、それは事実ではない。
で、この映画のラストシーンなのだが。
男の側に問題があって子供のできなかった夫婦。妻がほかの男とセックスをする。妊娠し、子供が生まれる。誰の子供だろう。父親は誰だろう。夫は、弟が父親かもしれないと感じている。弟が家の中に転がり込んできてからさまざまなことが起きたからだ。あらゆることの発端は弟だからだ。
ところが、子供を抱いて家へ帰る途中に、友人夫婦に出会う。友人(男)の方が近づいてきて、赤ん坊を抱く。「可愛い子だ」としきりにほめる。そのときの表情。それは他人の子供を見るときの顔ではない。特に、男が見せる顔ではない。女は、ときどき、こういう母性本能を丸出しにして子供を抱くことがあるが、それは女の「産みたい」という欲望と関係しているかもしれない。「産む」という行為をとおして、女は誰でも「母親」になれる。男は「産む」ことができないので、自分の子供と他人の子供では何か対応が違ってきてしまう。だいたい、だれかが赤ん坊を抱いているとき、「抱かせて」と最初に言ってくるのは女で、夫婦でいっしょにいるとき、男の方から「抱かせて」ということは非常に少ない。男が他人の赤ん坊に対して無防備で近づくことはない。
この瞬間、主人公(ベネディクト・カンバーバッチ)は、この男が父親なのだと「わかる」。このときのベネディクト・カンバーバッチの表情が非常にいい。「わかる」が、何もできない。問いつめることができない。誰が父親であるかを不問にして、妻が子供を産むことを支えた。そのことをいまさら裏切ることはできない。妻か友人が、「この子は父親は友人である」と言わないかぎり、それは「事実」にはならない。「わからない」ことになる。
妻の方も、「あ、父親が誰であるか、わかってしまった」と「わかる」。夫が真実に気づいたことが「わかる」。しかし、どうすることもできない。夫婦はそれまで並んで歩いていたのだが、一歩、二歩、妻が先を歩く。顔を見られないように。目が合うと何か言ってしまうそうだ。
夫は、その斜め後ろから、まるでその位置からでも妻の顔が見えるかのように、うかがうような、視線で歩く。
これから夫婦は、その「秘密」を抱えて生きていくことになる。「秘密」というのは、言い換えると「事実をことばにしない」ということでもある。「ことば」にしないかぎり、友人が子供の父親、妻は友人とセックスしたということは「事実」にはならない。「秘密」になる。--誰もが知っている。けれど「秘密」なのだ。
その「秘密」をプライバシーと言い換えると、イギリスのプライバシーの感覚がよくわかる。個人が自分から公開しないことはすべてプライバシーである。公開していないのなら、誰かに見られても、それを「ことば」で否定できる。その否定に対して、他人は反論できない。
映画にもどって言えば、「あなたが木の影でセックスしているのを見ました」と妻は夫の友人の妻に言うことはできない。また夫の弟に対しても言えない。さらに、弟は兄の妻に対して「あなたが兄とは違う男と私の部屋でセックスしているのを見ました」とは言えない。兄に対しても、そういうことは言わない。それは当事者が言わないかぎり、ことばで「証言」しないかぎり「事実」にはならないからだ。
この不思議な「論理」が、映画のスピード(影像のスピード)を、非常にゆっくりとさせる。観客が影像を「ことば」にして「肉体」の内部に取り込むのによりそうにように動く。人はきちんとした文章にならないことばをしばしば口にする。ほとんどが文章にならない断片を口にすると言い換えてもいいかもしれない。その「断片」が観客の「肉体」のなかで育つのを、影像がそっと後押しする感じだ。妻がほかの男とセックスしているとき、その部屋につながる階段を誰かがのぼっていく、誰かを映さず階段だけを映す影像の、ゆっくりした足どり--それがおもしろい。
いま、「足どり」と書いて思い出すのだが、この映画は「足どり」の映画でもある。「歩く」範囲で起きることがらでもある。車も出てくるが、それは少ない。ほんとうに遠くへ行くときだけだ。人はもっぱら歩く。イギリス人は歩くのが好きだ。歩きながら、頭の中で、さまざまなことを「ことば」にして整えるのかもしれない。自分だけのことばにするためには、「ひとり」で「歩く」ということが必要なのかもしれない。--と考えると、また少しイギリス人がわかったような気持ちになる。
という「ことば」とイギリス人の関係とは別にして。
田舎の風景、その緑。あ、これもイギリスだねえ。イギリス映画だねえ。アメリカ映画にはこの緑は出て来ない。湿気と黒を含んだ緑。少し日本(特に北日本)の緑に似ている。島国特有の色なのかもしれない。私は、この緑がとても好きである。アメリカ映画のように大雑把ではないし、アジア映画(一括りにしてはいけないのだろうけれど、たとえば中国、韓国映画)の熱い緑とも違う。イギリスの緑は黒を含んでいるのに、アジアの緑は赤を含んでいる印象が、私にはある。その静かな緑を、カメラはていねいに描いている。 (2014年03月12日、KBCシネマ2)
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