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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

山本育夫書き下ろし詩集『ことばの薄日』十八篇(追加)

2019-12-18 22:10:32 | 詩集
山本育夫書き下ろし詩集『ことばの薄日』十八篇(追加) (「博物誌」43、2019年12月15日発行)

 少し他のことをしていたら、「08ことばの羽音」について大事なことを書き漏らしていると気がついた。それは後半の詩について書くために残しておく「手がかり」のようなもののことである。前の文章では、それを「予告篇」というようなことばで書いたのだが、こういうやり方は、やはりよくないなあと思ったのだ。書いてしまっておこう。

その双子の姉妹はこちらを見て笑っている
「ふたごのしまい」ということばが
その姿から少し離れたところに
ひっそりとゆれながら浮かんでいる

そう思ってみると
歳月は川のように流れ
あらゆるものたちの右肩に
ふるえることばが
よりそっていることがわかる
気になるといえばなるがそれらはあくまでも
仮のものでパタパタと羽音を立てて
変わっていく
その音が世界中から立ち上がり
おごそかなシンフォニーのように響き渡る

 この詩の一連目には「双子の姉妹」と「ふたごのしまい」が出てくる。「双子の姉妹」はいわば「実在の人間」、「ふたごのしまい」は「ことば」である。「もの」と「ことば」と言い直すことができるし、「もの」と「概念」と言い直すこともできる。「ことば/概念」というのは「もの」を整理するときにつかう。「認識の経済学」のようなものである。
 つまり。
 「双子の姉妹」には、私の世代で言うと「ザ・ピーナツ」がいる。「こまどり姉妹」がいる。そして、私の姪には「昭子・和子」がいる。そういう実際の人間から、それぞれの「個性」を取り去って「ふたごのしまい」という「ことば/概念」で整理する。「意味」はひとりの母親から同時に生まれた「ふたり」ということになる。一卵性と二卵性という区別の仕方はあるが、それはまた別の「ことば/概念」であるので、ここでは触れない。私たちは、その「ことば/概念」で実際には違う存在を、「ひとつのありよう」として整理する。「日出子/月子」という名前を捨て去って「ザ・ピーナツ」と呼び、「ザ・ピーナツ」「こまどり姉妹」という名前を捨て去って「双子の姉妹の歌手」という具合に認識を整理する。
 これがふつうのことばの「経済学」。
 実際の「双子の姉妹」の「姿」から「少しは慣れたところ/ひっそりとゆれながら浮かんでいる」のが「ことば/概念」である--と一連目では書いている。
 そう定義した上で、一行空けて、つまり連を変えるかたちで新しくことばが動き始める。
 このとき、その二連目で起きているのは、私がいま書いたこととは逆のことである。「存在」を「ことば/概念」で整理する(思考の経済学を合理的にする/効率的にする)ということではない。
 「双子の姉妹」(ザ・ピーナツ/こまどり姉妹/昭子・和子)を「ふたごのしまい」ということばで「整理」してしまうのではなく、逆に「ふたごのしまい」という「ことば/概念」のなかへ「双子の姉妹」が逆に殴り込みをかけるのである。「ことば/概念」を破壊し始めるのである。(「01まみれず」につかわれていたことばで言い直せば「破砕する」のである。)
 「概念/ことば」が「実在」によって、破壊され、意味を持たなくなる。
 「概念」の最たるものが、誰もが知っているけれど、だれもそれを説明できない「時間」(「歳月」と山本は書いている)である。まず、それに対して攻撃をしかける。「歳月(時間)」は「川のように流れる」。この比喩も、「概念/ことば」である。だれも時間が流れるのを「見た」ことはない。「触った」こともない。(「02さわる」という詩がある。とりあえずは、触れない。)
 その「概念/ことば」へ「双子の姉妹」が攻撃をしかける。「概念/ことば」を破壊し、「意味」ではなくしてしまう、というのは、こんなふうにことばでは何となく言えてしまうが、実際にどういうことか考えるとややこしくなる。
 そのややこしいことを、山本は「あらゆるものたちの右肩に/ふるえることばが/よりそっていることがわかる」という「双子の姉妹」を見たときの「実感」で押し切ってしまう。
 この「実感」というのは「概念」か、それとも「現実」なのか、なかなか判断はむずかしいが、「ことば」になるまえの、「概念」になるまえの何かなので、「概念/ことば」でないとだけは言える。山本はこの中途半端な「実感」というものを「羽音」と呼び、「仮のもの」と名づけている。「名づけられないもの/ことば以前」ということになる。「ことば以前」なので、それを「ことば」にするとぜんぜん様にならない。あたりまえである。
 結果として「ことばの経済学/概念」が壊れた世界が断片として放り出される。詩になりそこねたもの(抒情になりそこねたもの)が無残に放り出される。しかし、ここには「抒情の病」はない。これが大事だ。
 「おごそかなシンフォニーのように響き渡る」というのは山本の「欲望」としてはそのとおりなのだが、他人の「欲望」が「欲望」として見えてくるのは、もっと、その「欲望」と山本が丁寧につきあっているときだけである。「08」の詩は、「過渡期」であり、山本自身が「方法」を手に入れた段階のなまなましさで動いている状態ということになると思う。これから「欲望」を探しに行くのだ。
 「ことば/概念」を「現実」で「破砕する」というのは、たぶん、そういうことだ。



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