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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

サイモン・バーホーベン監督「はじめてのおもてなし」(★+★)

2018-02-09 10:39:36 | 映画
サイモン・バーホーベン監督「はじめてのおもてなし」(★+★)

監督 サイモン・バーホーベン 出演 センタ・バーガー、ハイナー・ラウターバッハ、エリック・カボンゴ

 この映画は、いわゆる「肩すかし」の映画である。
 舞台はミュンヘン。裕福な家庭が難民を受け入れる。それをコメディータッチで描くという触れ込みだったが、難民が難民として映画に組み込まれていない。「異文化」の衝突がない。「文化」の違いに、だれも悩まない。
 展開されるのは、裕福な家族が、裕福さゆえにバラバラになっているのだが、そのバラバラが絆に変わるという過程。きっかけが「難民」である必然がない。「難民」が「客寄せ」の話題としてつかわれているだけである。

 でも、これは逆に言えば。
 「難民」を受け入れるということが、ドイツでは、それだけ「日常」になっているということかもしれない。「異文化」にとまどうという段階を通り越して、困っている「自国民」を受け入れる、ホームレスを善意で家庭に受け入れるということと変わりがなくなっているということかもしれない。
 舞台になっている「裕福な家庭」そのままに、ドイツ自体が「裕福さ」ゆえに「バラバラ」になっている。みんながそれぞれ自分のために生きている。助け合うというよりも、自分の欲望を優先させている。「難民」に向き合うことで、この「自分優先(自分ファースト)」を見直すという具合に、社会が変わりつつあるということかもしれない。
 そうであるなら、それでいいのだが。

 で、救いは。
 「難民」が「難民」として描かれていないということかなあ。(もちろん、これは不満にもなるのだが。)
 つらい記憶が語られるが、それは「語られる」だけであって、彼が生きている過程で、「肉体」からにじみ出てくるものではない。つらい体験が、他人を引きつける、あるいは他人を拒絶する「不可解なもの」としては描かれてない。「ことば」として受け入れられるものとして描かれている。
 つまり「生理的反撥」というものが、きれいに「除去」されている。これはドイツが「難民問題」を「ことばとして処理できるところまで整理している」ということである。(もちろん、これはそのまま不満でもあるのだが。)
 「難民」をみんなで受け入れようよ、と軽い調子で呼びかける映画と思えばいいのかもしれない。

 心配は。
 だれもが、ここに描かれている家庭のように「裕福」ではないということ。自分の生活に苦しみがある。精神的にというのではなく、経済的に。そうすると、この映画の家庭のようには簡単に「難民」を受け入れることができない。自分の生活が犠牲になる。
 そうなると、どういう反応が起きるかなあ。
 「ふつうの家庭」を舞台にしない限り、問題は見えてこない。
 ドイツ人がみんなあんなふうに「裕福」とは思えない。
                     (KBCシネマ1、2018年02月07日)





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