
監督 フランチェスコ・ブルーニ 出演 ファブリッツィオ・ベンティボリオ、フィリッポ・シッキターノ
映画を見ていると、「国民性」を感じることがある。「個人主義」の描き方、「成功」の描き方--つまり「人生」の描き方が国によってずいぶん違う。
この映画は、家庭教師をしている中年の男と高校生の話である。高校生の方は知らないのだが、実はその中年男は父親である。高校生が不良・落ちこぼれで落第しそうなので心配している。
というようなストーリーは、まあ、どうでもよくて。
おもしろいのが、その家庭教師というか、勉強にラテン語(たぶん)の『イリアス』をつかっていること。古典が「日常」になっていること。そして、その「文学趣味」というのが、最後の方にきてなかなかおもしろい形で生きてくる。高校生が麻薬の売人からドラッグと金を盗む。売人のボスが高校生をとっちめにくる。ボスが息子を殴られたくないなら、父親が身代わりになれ、と言って父親を殴る。--そして、殴ったあと、なんと彼がかつての高校の先生だったことを知り、「先生だけが自分に高い評価をしてくれた」と態度を変える。そのとき、パゾリーニのことばなんかが引用される。ボスが覚えていて、空で言う。高校生は、この師弟の関係を見て、突然、「勉強」に目覚める。その後、高校生は「合格」すれすれぐらいのところまでいくのだが、判定会議に「不合格にして」と申し入れる。勉強したりない。これくらいで合格したら、1年間一生懸命勉強した学友に申し訳ない……。
こんなこと、アメリカ映画じゃあり得ない。まず、ラテン語の文学がキーワードになることはないし、なによりも最後は生徒は合格するに決まっている。「勝利」が成功だからね。ハッピーエンドの「ハッピー」の形が「定型化」している。フランス映画じゃ、こんなことは「きざ」が浮いてしまう。実感がない。「特殊」であることを強調し、それなりの展開にはなるけれど、共感とは無縁のものになるだろうなあ。「いやみ」ったらしくなる。スペインでは……端から勉強なんかしないなあ。
イタリア映画は、なぜか、こういうことが似合う。「古典」と「いま」がつながっている。「時間」感覚が違う。ローマ帝国の「文化」がそのまま「肉体」になっている。ローマの街中に遺跡が残っている。それは私のような旅行者には建物、彫刻くらいしか見えないが、「歴史」も「文学」として残っているのだろう。「肉体」になじむ形で、「ことば」として動いているのだと思う。「文学」を読むと、「肉体」が覚えている「歴史」がよみがえってくる。DNAのなかに「世界史」が入り込んでいる。だからタビアーニ兄弟の「塀のなかのジュリアス・シーザー」という映画もできるのだ。ことばを「覚える」のではなく、肉体が覚えていることばを「思い出す」という感じ。
「肉体」が覚えている「生き方」があり、それが「肉体」の奥からよみがえってくる。そして、ひとりひとりになる。イタリア人だけではなく、イタリアの場合「地中海文明」そのものの、地中海のあらゆる人物のDANをイタリア人はよみがえらせる。そして、「いま」を「いま」ではなく「歴史」の幅(?)に拡大し、どんなドラマでも受け入れる。とっても不思議な「幅広さ」がある。そういうことができるのが、イタリア人なのだと思う。
だから、というと変かな? 「時間」の感覚も違う。高校生は、合格できるのに「不合格」を選ぶが、彼にとっては1年なんて、何千年の歴史から比べたら1秒みたいなものなのだ。1秒、ここにとどまったって、「歴史」から見ればなんのことはない。「いま」を積み重ねれば「未来」になるのではなく、「いま」を充実させれば「歴史」になる。「未来」という目標から「いま」を律して生きるのではなく、「いま」を充実させることで「未来」を突き動かす。どんな「未来」になるか気にしない。どんな「未来」であるにしろ、「いま」がしっかりしていれば、それは「歴史」を生み出していく。
うまく言えないが、そんな感じかなあ。
だからね、と私は、また変なことを言うのだが、ポルノ女優が「自伝」執筆を父親に頼む。ポルノ女優の「歴史」というものなど、ふつうは「触れられたくない過去」の類だけれど、彼女にとっては違うのだ。それは「過去」ではなく「歴史」。映画が終わったあとのクレジットの部分で流れる売人のボスの「自叙伝」も「歴史」。だから、高校教師の父親は、最後を書き換えてくれ、もっと華々しいものにしてくれという元教え子の願いを拒否する。「歴史」は変えられないのだ。「歴史」を変えるなら、高校生の息子のように「いま」という時間に踏みとどまり、それが「正しく」流れるように生きるしかないのである。
こんな「哲学」はイタリアでしか、あったかコメディーにできない。
あ、書きそびれた。主人公の高校生がなんともいい感じだ。無理に何かをしようとしていない。「未来」に対して焦っていない。奇妙な「自信」のようなものを生きている。それが、イタリア人の「歴史」だとわかるのは、映画を見終わってからである。
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