詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之『小詩無辺』再読(2)

2021-07-20 15:39:33 | 詩集

嵯峨信之『小詩無辺』再読(2)

 「言葉」は、どんな具合につかわれているか。

  言葉の泡を消せ
  意味のないシラブルにピリオドを打て   (港、446ページ)

 「泡」と「意味のない」は同じものだろう。「意味」が不明確な言葉を嵯峨は嫌っているようである。
 「自由がというものがあつた」には、こう書いてある。

  言葉は
  言葉以外の意味にあふれている  (446ページ)

 ここでの「意味」は「無意味」ということ。言葉はいろいろな意味を持っているが、多くの場合は「無意味」なものの方が多い。
 では、「意味」とは何か。詩のすぐつづきに、

  笑えば
  白がこぼれ落ちて
  白いといえばさらに白くなる

 「白」が「さらに白くなる」。この「さらに」こそが嵯峨にとっての意味、求めている意味である。「さらに」という働きをしないことばは「泡」なのである。
 さきに引用した、

  言葉よ
  まだ目覚めないのか
  ぼくの魂しいのどのあたりを急いでいるのか

 「さらに」を探して、魂しいは「急いでいる」。懸命に「さらに」を探している。そうすると、魂しいとは、ことばの「意味」を純粋に、絶対値に近づけるもののことだとわかる。
 世界にはものがあふれている。世界には言葉があふれている。しかし、そのなかに「絶対」があるだろうか。
 魂しいは「絶対」を刻印する何かである。

  どの言葉も遮閉されている
  そこを通りすぎるものを閉じ込める  (エスキス 461ページ)

 東京オリンピックでは、選手を「バブル」に閉じ込める「バブル作戦」がとられている。言葉の泡もまた、人を閉じ込める。ありきたりの(定型の、たとえば辞書に書いてある)意味に閉じ込められている。
 魂しいは、その「泡」を突き破る力である。言葉を古い意味(ありきたりの意味)から解放し、純粋に、それまで隠れていた意味に生まれ変わらせる力である。

  とりなしを願うために再び言葉を習い始める  (エスキス 461ページ)

 「再び言葉を習い始める」とは、定型の意味にまみれていない言葉を身につけるということだろう。
 ふたたび、前に引用した詩。

  空をゆく鳥は跡を残さない
  なぜ地上を歩くものは跡を残すのか
  それは言葉があるからだ
  その言葉が魂しいの影を落とすのだ  (* 461ページ)
 
 人はだれでも「絶対値」としての「意味」を言葉にこめたい。しかし、そういうことは簡単ではない。言いたいこととは違うものが言葉にはまじり込んでしまう。そういうものが「影」。魂しいは「絶対純粋」をもとめる。鳥のように空を自由に飛び回る「絶対純粋」。でも、それは実現不可能である。その不可能の記録としての、言葉というものがある。地上の足跡。人間の歩み。しかし、その影をじっと見つめれば、影を生み出している「光」が見えるかもしれない。
 そこに、詩の不思議さがある。
 どんなことばも、魂しいの絶対値に比べると、不完全な何かである。しかし、それの不完全なものが、完全を予測させる働きとして働くことがある。
 そういうものを、私は探したいと思い、こうやって詩を読んでいる。

  言葉はだれかが脱ぎ捨てた影だろう
  それでも
  火をつけると
  白い片翼のように輝く  (* 464ページ)

 「白い片翼」は鳥を思い出させる。先に引用した詩と結びつけて読みたくなる。
 「言葉」と「影」。言葉を魂しいが通り抜けると、古い言葉が脱ぎ捨てられる。言葉は新しい意味に生まれ変わる。そういう言葉は、言葉であっても、ちょっと外国語に似ている。言葉であることはわかっても、意味がわからない。難解である。かつて、現代詩は難解といわれたことがあるが、それは「古い意味」ではとらえられないという意味、定型の考え方ではとらえられない何かということだろう。たぶん、難解というのは、「脱ぎ捨てられた影」なのだ。「影」としか見えない何かなのだ。「影」は、ここでは否定的な意味につかわれている。しかし、そういう「影」であっても、火をつけると、「白い片翼のように輝く」。鳥の自由が、瞬間的に見える。
 生まれ変わった言葉も、生まれ変わるときに脱ぎ捨てられた言葉も、もし、その変化に魂しいが関与しているなら、魂しいに出会える可能性はあるのだ。

  風はなぜ影にかくれて通過できるか
  水が水を追うのはなぜか
  死という言葉をとらえる網はもうない  (パズルに隠れている死 472ページ)

 この詩に出てくる「言葉」について、私が語ることできるものは何もない。魂しいと関係づけることが私にはできない。こういうつかい方の「言葉」もある。わからないまま、わからないものを、保留して、先に進む。

  ぼくの魂しいに灯をともすと
  言葉の上を
  死んだ女の影が通りすぎる  (人間小史 473ページ)

 魂しい、言葉、死、影。よっつのものが交錯する。灯は、いのちかもしれない。死といのちと、どちら絶対か。絶対的なものか。
 よく説明はできないが、魂しいが通過した言葉、魂しいが火をともしている言葉が嵯峨のもとめているものであり、それが手に入らないとき、言葉の影が見えるということだろうか。

  無自覚で 空白で 自分を捨てたとき
  一つの言葉が
  ぼくの心の奥を掠めた  (* 474ページ)

 「自分を捨てたとき」は「無我」になったとき、と読むことができるだろうか。「我」にまみれていない純粋な状態。絶対的純粋。魂しいは、「無我」のことかもしれない。無我になると、言葉に出会うことができるのだ。「無我=無自覚」だから、あるいは「無意識」だから、そのとき何が起きたのか、ことばに再現することはできない。ただ、何かが「ぼくの心の奥を掠めた」と感じる。それは光か、影か。両方だろう。光にも感じるし、影にも感じる。「何かが起きている」。それを既成の言葉では正確には言い表すことができない。
 ふたたび、前に引用した詩。

  どこまで行つても一つの言葉にたどりつけない
  言葉は人間からはなれたがる

  氷のような
  こうもりの翼のような言葉は
  魂しいにさしかけている嘘の傘ではないか  (嘘の傘 476ページ)

 絶対純粋としての言葉。それにはたどりつけない。この詩では、鳥ではなく「こうもり」が出てくる。こうもりにも翼はあるが、鳥ではない。嘘の鳥。おなじように、嘘の言葉がある。言葉に見えるが、言葉ではないものがある。それは魂しいにとっては、ほんとうのことばではない。嘘の言葉である。それを見分ける必要がある、と嵯峨は言いたいのだろう。

  それでも何かがある
  未知の 既知の それ以外の何かが在るところに
  言葉ではあらわせないところ
  想いもとどかぬところ  (そこへ連れていつてくれ 480ページ)

 「未知の 既知の それ以外の何か」というのはおもしろい表現だ。そんなものがあるのか。矛盾している。しかし、詩は、こういう矛盾でしか言い表すことのできない何かなのだ。未知だけれど知っている。既知だけれど知らない。でも、そこに「魂しい」がある、と言えばいいのだろうか。
 そう考えると、私にも「魂しい」がわかるような気がする。魂ということばは知っている。しかし、その存在は、私には未知のもの。そういうものが、たしかにある。

  --どうでもいい
  彼が吐きすてるようにいつた言葉が
  わたしの全身を水浸しにした  (* 482ページ)

 吐き捨てるように言った「どうでもいい」。その言葉には魂しいがない。魂しいの通過した跡がない。だから「わたしを水浸しにする」。鳥の翼のように飛ぶ言葉と魂しい。その対極にある言葉だと言える。

  ぼくから言葉が生まれないのは
  去つていく遠い地が失われているからだ  (対話 486ページ)

 これもまた先に引用した詩。言葉が生まれないのは魂しいが存在しないから。魂しいがあれば言葉は生まれる。そう仮定すると「去つていく遠い地」が魂しいである
 詩はつづいていた。

  遠い地つて何処よ
  近いところの果ての果て
  --たとえばあなたの傍らよ  (487ページ)

 「近いところの果ての果て」。この矛盾の形でしか言えない場所。近いけれど、遠い。遠いといわずに「果て」と言っているのはなぜか。「地続き」だからである。自分とつながっているところ。逆に「遠いけれど近いところ」というものもあるかもしれない。
 たとえば「故郷/ふるさと」。どんなに離れても、心のなかでは「近い」。思い出すと、すぐそばにあある。
 この詩には、このあと別の二行がある

  ぼくに人を愛するという心はもう起こらない
  もはや ぼくはさびしささえ失つたのだから  (487ページ)

 この二行は保留にしておいて、次回は、「遠い場所/故郷」に通じることばと魂しいがどう関係しているかを見てみることにする。

 

 

 


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