渡辺玄英『渡辺玄英詩集』(2)(現代詩文庫232 、2016年10月30日発行)
『海の上のコンビニ』や『火曜日になったら戦争に行く』は多くのひとが触れるだろうし、また触れているので、「未刊詩篇」の作品から。「ひかりの分布図」。
渡辺の作品を特徴づける括弧が開かれたままの行が出てくる。ふつう括弧は先に書かれたことばを補足するためにつかわれる。補足は括弧内にとざされている。渡辺はこれを解放している。補足を補足として特定しない。補足は「こと(ば)」を解放する働きをする。起きている「こと」、起きている「ば」。「解放する」は固定しないこと。
ふつうの括弧内の補足は、補足に見えて実は先行することばを逆に閉じ込める。渡辺の場合、括弧内のことばが括弧の外にあることばを括弧内に引き込み限定するのではなく、括弧内のことばによって「開く」。別な方向へ開いて行く。。
「意味」を限定しない。「意味」を解放する。これが渡辺のことばの基本的な運動の形だ。
で、このときの括弧内のことばなのだが……。これは何だろう。さまざまなつかい方があるだろうから、この部分だけに限定して見てみる。
「わたくし」は「流れていく」。「流れる」に「水平線」「河口」ということばが接続すれば、「流れ」とは「河」である。「河」が流れるのなら、流れる先に「河口」はあり、延長線上に「水平線」がある。「(地平線はどちらですか?(河口はどちらですか?」と問うことは「論理」の上では意味がない。「流れていく先」という答えがすでに含まれている。
それなのに、問う。なぜか。問うときに、何が起きているのか。
「論理」の否定、「論理」の破壊である。この作品の、ここに書かれていることに則していえば「流れる」という運動に対する否定。抵抗。
「流れる」に拮抗、対峙する運動とは何か。「くるくる」ということばが、「流れる」の前に出てくる。「くるくる」は「まわる」。書かれていないが「まわる」という動詞が隠れている。動いている。「(地平線はどちらですか?(河口はどちらですか?」という特定を避けたことばとなって「くるくる」が動く。「まわる」ということばをつかわずに、動く。そのあとで、「まわる」ということばを「生み出す」。
「まわる」は「くるくる」のなかに存在している。それが「(地平線はどちらですか?(河口はどちらですか?」という「産婆術」によって、生み出される。
詩は、こうつづく。
この行の登場で、この詩のテーマが「流れる」を切断する「まわる/回る」という動詞であることがわかる。
「まわる」は「はためく/はためき」「風景/風景のように」「未来/将来」に類似のことばを引き寄せる。「類似」の確認によって「まわる」は成立する。同じものが出てこないと「まわる/もとにもどる」ということが成り立たない。
「まわる/もとにもどる」は「もと」を「くりかえす」でもある。「(なるに違いなく(なるかもしれず(なるだろう」ということばの動きは、「くりかえし」にあたる。「なる」を補足する「動詞(述語)」は変化するが、「語幹(?)」の「なる」はそのままである。「もと」のまま。だから、「まわる/回転している」。
この「なる」を「鳴る」と言いなおす。「音」はくりかえされる(もとのまま)だが、「意味」がずらされる。「流れる」を切断するものに「まわる」だけではなく「ずらす」(それる)という動きが加わり、「動詞」の内部が豊かになる。「隠されていた動詞」が動き出す。生み出される。それは当然、「動詞」だけではなく「名詞(存在)」をも生み出す。
「ちがう」という「否定」を起点にして、「遠く」が引き出される。「まわる」は「わたくし」が起点。あるいは「主語」。それから離れる。これは「(地平線はどちらですか?(河口はどちらですか?」という「どちら」に含まれていた「遠心力」のようなものの繰り返しでもある。(「まわる」という動きには、求心力と遠心力の均衡がある。)
こういう「動詞」の一貫性(肉体/思想)が、では、どういう「名詞(存在)」を、その瞬間に生み出すか。「動詞の産婆術」は、渡辺の場合、「名詞」として何をを生み出すか。
うーん、宮沢賢治か。あるいは天沢退二郎か。「印象」なので、何とでもいえるが、宮沢賢治、天沢退二郎を別なことばで言いなおせば確立された詩ということになる。
しかし、これは渡辺のことばの運動を批判するために、そういうのではない。ことば、あるいは詩とは、そういうものだと思う。すでに存在するものを、新しく思い出させるもの。「肉体」のなかに存在しているが、思い出すことのなかったものをもういちど思い出すこと、そういう繰り返しのなかに詩がある。自分の「肉体」の内部を耕し、解放する。内部にあった「いのち」に形を与える。生み出す。
これは、渡辺の場合にもあてはまる。
「遠くで空が割れるの音」は、このあと、こう言いなおされる。
「青い蝶」。きれいなことば。きれいなイメージ。だれもが知っていることば。それが新しく生まれてきている。生み出されている。
「火曜日になったら戦争に行く」の書き出し。
「野ウサギ」「荒れ野」という「童話/なじみのあるイメージ」は「青い蝶」につながる。渡辺を語るとき「浮遊感」ということばがキーワードになっているようだが、私はその「奥」に「感性の伝統/古典のイメージ」の蘇り(あらたな出産/産婆術)のようなものを感じる。
『海の上のコンビニ』や『火曜日になったら戦争に行く』は多くのひとが触れるだろうし、また触れているので、「未刊詩篇」の作品から。「ひかりの分布図」。
いまは風景の破片になろうとして
このようにおびただしくわたくしはくるくると
方位を変えながら流れていく
(地平線はどちらですか?(河口はどちらですか?
渡辺の作品を特徴づける括弧が開かれたままの行が出てくる。ふつう括弧は先に書かれたことばを補足するためにつかわれる。補足は括弧内にとざされている。渡辺はこれを解放している。補足を補足として特定しない。補足は「こと(ば)」を解放する働きをする。起きている「こと」、起きている「ば」。「解放する」は固定しないこと。
ふつうの括弧内の補足は、補足に見えて実は先行することばを逆に閉じ込める。渡辺の場合、括弧内のことばが括弧の外にあることばを括弧内に引き込み限定するのではなく、括弧内のことばによって「開く」。別な方向へ開いて行く。。
「意味」を限定しない。「意味」を解放する。これが渡辺のことばの基本的な運動の形だ。
で、このときの括弧内のことばなのだが……。これは何だろう。さまざまなつかい方があるだろうから、この部分だけに限定して見てみる。
「わたくし」は「流れていく」。「流れる」に「水平線」「河口」ということばが接続すれば、「流れ」とは「河」である。「河」が流れるのなら、流れる先に「河口」はあり、延長線上に「水平線」がある。「(地平線はどちらですか?(河口はどちらですか?」と問うことは「論理」の上では意味がない。「流れていく先」という答えがすでに含まれている。
それなのに、問う。なぜか。問うときに、何が起きているのか。
「論理」の否定、「論理」の破壊である。この作品の、ここに書かれていることに則していえば「流れる」という運動に対する否定。抵抗。
「流れる」に拮抗、対峙する運動とは何か。「くるくる」ということばが、「流れる」の前に出てくる。「くるくる」は「まわる」。書かれていないが「まわる」という動詞が隠れている。動いている。「(地平線はどちらですか?(河口はどちらですか?」という特定を避けたことばとなって「くるくる」が動く。「まわる」ということばをつかわずに、動く。そのあとで、「まわる」ということばを「生み出す」。
「まわる」は「くるくる」のなかに存在している。それが「(地平線はどちらですか?(河口はどちらですか?」という「産婆術」によって、生み出される。
詩は、こうつづく。
流れていくくるくる(いいだろう、こんなに回って
この行の登場で、この詩のテーマが「流れる」を切断する「まわる/回る」という動詞であることがわかる。
はためく風景のはためき(笑えよ、風景のように
未来のわたくしは将来これを見る
ことになる(なるに違いなく(なるかもしれず(なるだろう
鳴るのは何?
鐘の音?(ちがうよ、遠く
遠くで空が割れるの音
未来はくるくるまわりながら
「まわる」は「はためく/はためき」「風景/風景のように」「未来/将来」に類似のことばを引き寄せる。「類似」の確認によって「まわる」は成立する。同じものが出てこないと「まわる/もとにもどる」ということが成り立たない。
「まわる/もとにもどる」は「もと」を「くりかえす」でもある。「(なるに違いなく(なるかもしれず(なるだろう」ということばの動きは、「くりかえし」にあたる。「なる」を補足する「動詞(述語)」は変化するが、「語幹(?)」の「なる」はそのままである。「もと」のまま。だから、「まわる/回転している」。
この「なる」を「鳴る」と言いなおす。「音」はくりかえされる(もとのまま)だが、「意味」がずらされる。「流れる」を切断するものに「まわる」だけではなく「ずらす」(それる)という動きが加わり、「動詞」の内部が豊かになる。「隠されていた動詞」が動き出す。生み出される。それは当然、「動詞」だけではなく「名詞(存在)」をも生み出す。
「ちがう」という「否定」を起点にして、「遠く」が引き出される。「まわる」は「わたくし」が起点。あるいは「主語」。それから離れる。これは「(地平線はどちらですか?(河口はどちらですか?」という「どちら」に含まれていた「遠心力」のようなものの繰り返しでもある。(「まわる」という動きには、求心力と遠心力の均衡がある。)
こういう「動詞」の一貫性(肉体/思想)が、では、どういう「名詞(存在)」を、その瞬間に生み出すか。「動詞の産婆術」は、渡辺の場合、「名詞」として何をを生み出すか。
遠くで空が割れるの音
うーん、宮沢賢治か。あるいは天沢退二郎か。「印象」なので、何とでもいえるが、宮沢賢治、天沢退二郎を別なことばで言いなおせば確立された詩ということになる。
しかし、これは渡辺のことばの運動を批判するために、そういうのではない。ことば、あるいは詩とは、そういうものだと思う。すでに存在するものを、新しく思い出させるもの。「肉体」のなかに存在しているが、思い出すことのなかったものをもういちど思い出すこと、そういう繰り返しのなかに詩がある。自分の「肉体」の内部を耕し、解放する。内部にあった「いのち」に形を与える。生み出す。
これは、渡辺の場合にもあてはまる。
「遠くで空が割れるの音」は、このあと、こう言いなおされる。
あのとき、空が割れる音がして
それから青い蝶が分布して各地で観測された
「青い蝶」。きれいなことば。きれいなイメージ。だれもが知っていることば。それが新しく生まれてきている。生み出されている。
「火曜日になったら戦争に行く」の書き出し。
火曜日になったら
戦争に行く
野ウサギがはねる荒れ野の中を
画面の野ウサギにカーソルをあわせたら
引き金を、ひいてくらさい
「野ウサギ」「荒れ野」という「童話/なじみのあるイメージ」は「青い蝶」につながる。渡辺を語るとき「浮遊感」ということばがキーワードになっているようだが、私はその「奥」に「感性の伝統/古典のイメージ」の蘇り(あらたな出産/産婆術)のようなものを感じる。
![]() | 火曜日になったら戦争に行く |
渡辺 玄英 | |
思潮社 |