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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

リッツォス「証言B(1966)」より(36)中井久夫訳

2008-12-14 15:05:37 | リッツォス(中井久夫訳)
影のレース  リッツォス(中井久夫訳)

夏至だった。何という暑さ。
市の壁の外側の神聖道路を何時間歩いたか。
埃はいつまでも静まらなかった。汗と太陽。白いパラソルを
僧侶が二人、頭の上にかざさせていた、古代の下人アイテオブターダイの子孫四人に。
彼等は汗にまみれ、哀れな様子だったが、なお傲然としていた。
この白い移動天幕に太陽全体の力が集まったみたいだった。
ついに着いた。むきだしの石はわれわれを盲にした。われわれはイコンを土で掩った。
すると汗がぴたっと止まった。こまかな露がパラソルを湿らせていた。
かろやかな雲が丘の頂上に現れた。影が下りて来て睫毛をかげらせた。
この行進の吐き出した蒸気だったか。まさか。
青年たちはもう服を脱いだ。体操競技が始まるところだった。



 この作品も前半と後半では趣が違う。
 前半は過酷な暑さが印象に残る。「白い移動天幕に太陽全体の力が集まったみたいだった。」「むきだしの石はわれわれを盲にした。」この白く燃える光の強さが、とても印象に残る。その白さに照らされて、酷使される肉体がきらきら光る。汗と、その過酷さに耐える気力が光る。
 後半は、酷使されていた肉体が一気に解放される。同じ人間の肉体ではないのだけれど、肉体そのものがいきいきとしたものにかわる。その変化をもたらすきっかけが「イコンを土で掩」うという行為なのだが、この行為が象徴するものが私にはわからない。古代ギリシアの何かの祈りの象徴なのかもしれない。
 私がおもしろいと思うのは、この行為を境にして、後半、さわやかな影のレースが青年たちを覆い、体操競技をする肉体を祝福する感じに詩が変わっていく、そのきっかけの1行の書き方である。

ついに着いた。むきだしの石はわれわれを盲にした。われわれはイコンを土で掩った。

 「着いた」と「イコンを土で掩った」は別の行為である。改行があった方が自然だと思う。けれども、リッツォスはこれを1行で書く。そして、そのふたつの行為の間に「むきだしの石はわれわれを盲にした」という主語の転換した文がはさまれる。「スタジアムのむきだしの石の白さにわれわれは盲になった」ではなく、あくまで「石は」が主語であり、その白さゆえに、「われわれ」は「盲に」になった。「われわれ」は「盲」にさせられたのである。この主語の転換、一気に方向をかえながら、瞬時に「いま」「ここ」へもどってくる感覚。漢文のような、森鴎外の文体のような、遠心と求心の結合。
 この1行が厳しく凝縮しているがゆえに、前半と後半は、一気に転換することができる。
 
この行進の吐き出した蒸気だったか。まさか。

 ふっと挿入された、この1行。口語のざわめきもおもしろい。「まさか」というナマな印象の残る口語は、そのまま肉体へと繋がっていく。その肉体のイメージが、最終行の「体操競技」を自然に引き寄せる。

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