goo blog サービス終了のお知らせ 

詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ダーレン・アロノフスキー監督「ブラック・スワン」(★★★★★)

2011-05-12 09:12:00 | 映画
監督 ダーレン・アロノフスキー 出演 ナタリー・ポートマン、ヴァンサン・カッセル、ミラ・クニス、ウィノナ・ライダー

 人間にはだれでも二面性がある--ということを、ことばで言ってしまうのは簡単である。たとえばこの映画の重要なテーマとなっている「白鳥の湖」には純粋な白鳥と妖艶な黒鳥が登場するが、それはひとりの人間の両面である。だからそれを別々の人間が演じるのではなくひとりで演じる、ひとりで人間の両面性を具現化する、という課題はことばでは簡単である。ことばは「矛盾」を平気で結びつけることができるのである。ところが「肉体」は「矛盾」を内部に抱え込むことはできるが、それをくっきりとみえるようにすることはできない。できるひともいるにはいるが、ことばほど簡単にはいかない。
 これは「矛盾」だけではなく、あらゆることがらについていえる。簡単な例をあげると、人間は 100メートルを10秒で走ることができるとはだれでも言える。けれど、実際にそれを肉体で表現できるひとはかぎられている。ことばを動かし、ことばのなかで世界を実現することと、肉体を動かし肉体を世界のなかで実現することは別個の問題なのである。そして、めんどうくさいことに、ことばで書いてしまうと、こういうことはだれにでもわかるということである。人間にはだれにでも二面性がある--ということばが、だれにもわからないことばなら問題がない。だれにでもわかる。そのわかることを、しかし、人間は肉体では表現できない。ね、めんどうくさいでしょ。
 そのめんどうくさいことのために苦しむという役をナタリー・ポートマンが演じきっている。清純な白鳥向きのバレーダンサーであるという一面、そしていま白鳥と同時に妖艶な黒鳥を演じるというのではなく、その妖艶さがうまく表現できないという苦悩を演じきっている。「なりきれない」という中途半端な、つまり頭ではわかっているが、肉体ではそれが表現できないというめんどうくさいことを演じきっている。
 何がナタリー・ポートマンを邪魔しているのか。映画は、それを探る形でナタリー・ポートマンの「肉体」の内部へ侵入していくのだが、うーん、おもしろいですねえ。ナタリー・ポートマンは純粋な白鳥むきというのが「表向き」の姿だが、実際は純粋・無垢というわけではない。アトピーに苦しみ、無意識のうちに肌をひっかき傷つけるという癖をもっている。「白鳥」の外観にはふさわしくない肌をもっている。それをいっそう悪化させる癖をもっている。それを隠している。
 この隠しているという「意識」がいくつもの「幻覚」を引き起こす。たとえば、爪の間に入った皮膚、血の滲んだ爪、そして食い込んだ血の汚れをとろうとすると皮膚が破れる--というのは、どこまでが現実で、どこからが幻想かわからない。
 この幻覚に「鏡」がからんでくる。爪の間に食い込んだ皮膚を引き出すシーンも鏡のあるトイレでおきる。踊っている途中に背中が痒くなる。そうすると、鏡のなかでは肉体の内部にいる無意識のナタリー・ポートマンが背中を掻きむしる。それが現実のナタリー・ポートマンに見える、という具合である。
 鏡は、現実の鏡のほかに、ミラ・クニス、ウィノナ・ライダーというダンサーとしても登場する。彼女たちはナタリー・ポートマンとは別個の肉体をもった人間であるが、その肉体の中にナタリー・ポートマンの隠された肉体が動くのである。ミラ・クニスとのセックスシーンは、ナタリー・ポートマンの欲望が解き放たれた姿としてわかりやすいものだが、ウィノナ・ライダー相手にも、そういうことがおきるのである。ナタリー・ポートマンはウィノナ・ライダーのつかっていた化粧品、化粧のための道具を盗み、つかう。つかうことで、外見をウィノナ・ライダーに近づけるのである。ミラ・クニスが肉体の内部(本能)の鏡であるなら、ウィノナ・ライダーは肉体の外部(顔)の鏡である。(だから、最後の方で、ウィノナ・ライダーが顔を爪やすりで傷つけるという幻想が出てくる。)
 隠されていたものが、しだいに「具体的」になってくる。「鏡」としての「肉体」から、ナマの「肉体」が動きだしてくる。ミラ・クニス、ウィノナ・ライダーはナタリー・ポートマンの「内面」を映し出すだけではなく、ナタリー・ポートマンの「肉体」そのものとなるのである。ナタリー・ポートマンは、ときにミラ・クニスとなり、ときにウィノナ・ライダーになって動く。そして、その動きを、ナタリー・ポートマンは本物の鏡のなかにみる。鏡のなかには、ナタリー・ポートマンではなく、欲望をむき出しにしたミラ・ニクスがいて、また絶望したウィノナ・ライダーがいる。後半のクライマックスの、黒鳥ミラ・ニクスと白鳥ナタリー・ポートマンの衝突が「鏡」とナタリー・ポートマンが向き合う形でおきるのは、それが黒鳥もナタリー・ポートマンだからである。また、その黒鳥を傷つけるとき、ナタリー・ポートマンは爪やすりで顔を傷つけたウィノナ・ライダーにもなるのである。
 結局、ナタリー・ポートマンは「自分の内部」ではなく、「鏡」(自分を映し出すもの)によってしばられていたことになる。その最強の「鏡」が母親ということになる。ちょっとめんどうくさくて、これまで書いてこなかったが……。最後に、客席の母親がアップになる--ナタリー・ポートマンが母親を見つけ出すのは、母こそがナタリー・ポートマンをとじこめていた「鏡」であることを象徴である。
 母によって、かわいい、清純な女性(少女?)でありつづけることを要求され、母親の夢のために、その姿にあわせるように自分を律してきたナタリー・ポートマン。その鏡を破り、ほんとうの「人間」、ほんもののダンサーになるためには、死しかない。「白鳥」は王子を黒鳥に奪われて人間にもどることができず、死ぬことで愛を手に入れたように、バレーダンサーとして生きてきたナタリー・ポートマンは死ぬことでダンサーとしてはじめてダンサーになるのである。
 母と娘の深い固執が、鏡の裏の朱泥として見えてくる。この朱泥があって、ナタリー・ポートマンの「外見」も「内部」も存在するのである。
 この、映画全体をつらぬく「鏡構造」もおもしろいが、細部の「幻覚」の映像がそれを乱反射させるように美しい。効果的だ。予告編にもつかわれていたが、ナタリー・ポートマンが家でストレッチ(ウォームアップ?)をしているとき、その映像が人影で一瞬消える。母親がカメラとナタリー・ポートマンとの間を横切るのだが、その影がなんとも不気味である。母の影が、非常にうまくつかわれている。とても巧みな伏線になっている。爪を切るシーン、爪を切りながらナタリー・ポートマンを傷つけるシーンも効果的である。



 ナタリー・ポートマンの演技そのものについて書きそびれてしまった。1年間レッスンし、体重も何キロも減らしたという「肉体の外観」にも驚く。胸がぺちゃんこで、まさにバレエダンサーの体になっているのだが、冒頭の「白鳥」のシーンは、なんとなく手がぎこちない。これでずーっと押し通すのかなあ、少し不安になるが、後半がおもしろい。冒頭のシーンは冒頭のシーンで、まだ「完璧」なダンサーになっていなくて、「夢」のシーンだからあれくらいでいいのかもしれない。全身よりもアップで演技をするようになってから、そして黒鳥を舞っているうちにだんだん本物の羽が生えてくるという映画ならではの処理がほどこされたシーンは夢中になって見てしまう。白く厚化粧し、マスクをしているにもかかわらず、そこに「表情」を見る。そして「表情」こそが「肉体の内部」であるということがわかる。
 

マイ・ブラザー [Blu-ray]
クリエーター情報なし
ポニーキャニオン

コメント (1)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 和合亮一「詩の礫2011.3.1-4... | トップ | 和合亮一「詩の礫2011.3.1-4... »
最新の画像もっと見る

1 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

コメント日が  古い順  |   新しい順
一番気になる映画 (あや)
2011-05-12 19:28:00
今一番見たいけど見たくない映画です。チラシを見て、なんて美しいのかと、見入ってしまいました。黒鳥に。私自身少しだけ大人のバレエをかじったので、ストレッチもしますし、トゥシューズの練習までなんとかこぎつけたのですけど、振り付けが一度で覚えられなくてついていけなくて、辞めてしまいました。見てみたいので谷内さんの文章はすっとばして読ませていただきました(笑)
返信する

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

映画」カテゴリの最新記事