goo blog サービス終了のお知らせ 

詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

村嶋正浩「室生犀星 螽斯の記」

2016-09-27 09:40:30 | 詩(雑誌・同人誌)
村嶋正浩「室生犀星 螽斯の記」(「言葉の海へ」10、2016年07月02日発行)

 村嶋正浩「室生犀星 螽斯の記」の「キリギリス」の二つ目の文字は、「虫」+「斯」なのだが、私のワープロでは表記できないので「斯」で代用した。
 その後半。

午前七時の天気予報で梅雨明けが宣言され、窓を開け放ち西風を
呼び込むのは子供の頃からのならいで、ガスレンジの上でお湯が
滾っている薬缶が気持ちのいい音を部屋中にまき散らしているの
を耳にしながら、眼、耳、舌、唇、更に手足と昨日のままなのが
嬉しく、瞼はあなたの一重が好みで、またあの夏が来たので詩人
なんか大嫌いと書き散らし、それでも振り向くとまた雨だれの音
が家の中までして季節が足早に過ぎるとブランコの揺れる公園も
今はなく、白い花の咲く頃の思い出も薄れ、カーテンは風に揺れ

 まだ続くのだが、こんなふうに読点「、」ばかりで句点「。」は最後にひとつあるだけで、延々と言う感じでことばが動いていく。
 どこが、おもしろいのか。この詩について、私は何を書くことができるのか。じつは、私にはわからない。いつも、誰の詩についてもそうだが、私は何わからないままに書く。読んでいて、ふと、つまずく。その「つまずき」について、ことばを動かしてみる。

眼、耳、舌、唇、更に手足と昨日のままなのが嬉しく、

 この部分で、私は少し立ち止まった。読み進むスピードが変わった。村嶋は「昨日のまま」と書いている。ほんとうか。ほんとうに「眼、耳、舌、唇、更に手足」という「肉体」は「昨日のまま」か。「肉体」の内部では、細胞の生き死にがある。だから、それは「昨日のまま」ではないということを、私は知っている。そして村嶋だって、そういうことは知っているはずである。知っていて、なお「昨日のまま」と書く。それは何といえばいいのか、「意識の修正」である。「意識」を「修正」して、そのうえで「肉体」をつづけるのだ。
 「肉体をつづける」とは奇妙な言い方である。自分で書きながら、これはおかしいなあ、と思う。思うと同時に、この「肉体をつづける」というのは「世界をつづける」ということだな、と思いなおす。
 「眼、耳、舌、唇、更に手足と昨日のままなのが嬉しく、」ということばにつまずいたのは、そうか、村嶋が「世界をつづけている」と感じたからなのだ。
 「世界はつづいている」、村嶋の「肉体」と同じように、村嶋の「意識」では動かせない形で、それは「つづいている」。けれど、その自分の「意識」では動かせないものを「動かせないまま」にしておくのではなく、自分で「引き受け」、そのうえで「つづけている」と感じたのだ。
 書きながら、そういうことを私は発見していく。
 「肉体」を「肉体」まるごとで「肉体」と呼ぶのではなく、「眼、耳、舌、唇、更に手足」と「部分」ごとにことばにしながら、それをもう一度「肉体」として「つないでゆく」。「つなぐ」と「つづける」は、そのとき同じものになる。
 同じことが、「世界」に対しておこなわれている。

窓を開け放ち西風を呼び込む

 「窓」と「西風」は「眼、耳、舌、唇」のように、別の名前で呼ばれる別のもの。しかし、それが「開け放つ」「呼び込む」という、村嶋の「働きかけ」(動詞/動作)によって「つながる」。そして「世界」になる。
 それは「昨日のまま」ではないかもしれない。けれど、それは「子供の頃」のままである。
 で、ここが、不思議。
 この詩には「昨日のまま」、つまり一番近い時間といまが「同じ形」でつづいているということが書かれていると同時に、遠いある瞬間といまがやはり「同じ形」でつづいていることが書かれている。「違う」のに「同じ」。そして、この「同じ」という感覚が「違う」を「つなぐ/つづける」。

瞼はあなたの一重が好みで、

 「好み」はかわらない。「好み」はつづいている。「好み」が「世界」を「つないでいる」。

季節が足早に過ぎるとブランコの揺れる公園も今はなく、

 「足早に過ぎる」、そして「なくなる」。「公園も今はなく」と、もう、つなげようとしても不可能なものもある。けれども、そういうものを「意識」は「つないぐ」。「ない」ということばをつかいながら「つなぎ」、そして「つづける」「世界」から切断しながら、もういちど「世界」へ呼び戻す。
 切断と接続を繰り返しながら、村嶋は「好み」を整え続けている。
 そして、その切断と接続のなかには、「昨日のまま」という「感じ」がいつも入り込んでいるのだ。あらゆることが「昨日」の「近さ」でととのえられる。「昨日のまま」にされる。
 だから、この詩には、あらゆるところに「昨日のまま」を補って読むことができる。

「昨日のまま/昨日と同じように」窓を開け放ち、「昨日のまま/昨日と同じように」西風を呼び込む。(それは)子供の頃からのならい(同じ行為)である。(「昨日のまま/昨日と同じような」行為である。)ガスレンジの上でお湯が「昨日のまま/昨日と同じように」滾っている。その薬缶が「昨日のまま/昨日と同じように」気持ちのいい音を「昨日のまま/昨日と同じように」部屋中にまき散らしているのを「昨日のまま/昨日と同じように」耳にしながら、眼、耳、舌、唇、更に手足と昨日のままなのが「昨日のまま/昨日と同じように」嬉しく、「昨日のまま/昨日と同じように」瞼はあなたの一重が好みで、

 という具合だ。「昨日」は、「いま/ここ」にはないが、「昨日のまま」と思った瞬間に、それは「いま/ここ」そのものになる。
 新しいなにかをするという「充実」とは別の「充実」が、しずかな形で、ここに生み出されている。

晴れたらいいね―村嶋正浩詩集
村嶋 正浩
ふらんす堂

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 廿楽順治「ぜろですよ」 | トップ | 自民党憲法改正草案を読む/... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

詩(雑誌・同人誌)」カテゴリの最新記事