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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ガブリエレ・ムッチーノ監督「幸せのちから」

2007-02-16 00:04:36 | 映画
監督 ガブリエレ・ムッチーノ 出演 ウィル・スミス

 おもしろい(といっても、楽しいという意味ではない)シーンが1つある。語りはじめるなら、このシーンから語りたいというだけのことである。
 主人公は売れない医療機器を販売している。その機器をヒッピーが「タイムマシーン」と呼んだために、息子がそう信じてしまう。その息子を相手に、「タイムマシーン」をつかって空想の旅へ出る。地下鉄の駅。目をつむる。「タイムマシーン」のボタンを押す。目を開ける。そこは恐竜時代。「大事な火を踏むな」「Tレックスがやってきた」「洞窟へ逃げよう」。そんなふうにしてトイレに逃げ込み夜を明かす。美しい夢のようなシーンだが、その美しさを、眠る息子を抱きながらウィル・スミスが涙を流すとき、その涙が叩き壊してしまう。
 このシーンは映画全体のテーマを象徴している。
 夢を見る無邪気な力。夢を見るとは、そこにないものをあるもののように実感する力である。こどもはそういう夢を実感する力が自分にあることを発見し、遊びに夢中になる。夢みる力を楽しむ。そういう力を賛美している。ただ、それがストレートに最後まで貫かれない。ねじれてゆく。
この映画の主人公は、この恐竜時代へのタイムトラベルのような、ほとんど不可能な夢を実現する。ホームレス生活をしながら、(しかも幼いこどもをかかえながら)、半年の無給の研修期間をクリアし、信託銀行に入社する。実話だそうだが、ほとんど奇跡である。夢みる力が、彼の人生をかえてしまう。その過程を描いているのだが、私はすなおには感動できないのである。ウィル・スミスの行動は、こどもが恐竜時代ごっこに夢中になった世界とは無縁なのである。そこには夢みる力を楽しむ姿はない。
 ウィル・スミスが演じる男は、たしかに幸せになる。成功する。つまり、金を稼げる職業につき、こどもと安心していっしょに暮らせる。だが、彼だけが幸せになったのではないのか。別の視点からいえば、そういう疑問が残るのである。
 たとえば「地上最速のインディアン」。アンソニー・ホプキンスはただスピード記録を塗り替えたくてバイクを走らせる。そのことに夢中になる。その夢中になる姿が、出会った人々を引き込んで行く。あの男、おもしろい。へええ、人間というのはこんなことができるんだ。成功というよりは、遊びの完成である。遊びを完成させるために、アンソニー・ホプキンスは一生懸命になる。夢は遊びのなかでこそ輝くのである。
 たとえば「ミス・リトル・サンシャイン」。末っ子娘が優勝を狙う「ミス・リトル・サンシャイン」コンテストは、それを真剣にとらえている人間も一部にいるけれど(そういう一部の人間が鮮やかに笑われている)、やはり遊びである。遊びだからこそ、その遊びを完全にやりとげさせるために家族がいっしょになって遊ぶ。そのとき、そこに幸せというものが、それを求めているわけではないけれど、美しい姿となってあらわれてくる。家族がいっしょになってむちゃくゃやっている。こんなむちゃくちゃ、だれか出来るかい? という楽しさがある。幸せがある。
 たとえば「酒井家のしあわせ」。父親は死んで行くのがわかっている。息子は親友にガールフレンドを奪われて失恋する。それでも幸せである。笑うべきことではないのに、なぜか笑ってしまう。それが幸せというものだ。幸せは成功とは違うのだ。(「地上最速のインディアン」はたまたま成功するけれど、それはたまたまである。成功しなくたって、ただ走るだけで、まわりの人間はみんな幸せになった。わあ、すごいと驚いた。記録の達成は付録である。)
 幸せとは、成功であろうが失敗であろうが、そういうこととは関係なく、いっしょになって何かをし、いっしょになって心を動かすこと。笑うこと。
 「タイムマシーン」のシーンでは、そういう一瞬があったのだ。しかし、ウィル・スミスは彼のことばが「嘘」であることを知っていた。こどもの注意をそらすために「タイムマシーンごっこ」をやったことを知っていた。--そこからは幸せは生まれない。ここに描かれているのは「幸せの力」ではない。
 20人の競争相手のなかからひとりだけ社員として採用されるというサクセスストーリーが象徴的だが、彼の幸せは他人といっしょに何かをするということではなく、勝ち残るということと同義なのである。「幸せのちから」というより「勝利のちから」がこの映画のタイトルであるべきだ。
 この「勝利のちから」を、こどもを利用して「幸せのちから」に見せかけている。立派な(?)職業につき、金を稼ぎ、こどもといっしょに暮らす幸せを手に入れたというふうにごまかしている。金に不自由せず、こどもといっしょにいることが「幸せ」ならば、彼が悪戦苦闘していた半年は、こどもといっしょにいたけれど、金がなかった「不幸な半年」になってしまう。そして、それは、こどもの、あのタイムマシーンで遊んだ一夜の喜びを否定してしまう。
 いやあな気持ちになる映画である。

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