38 手術
「宮崎病院」という注釈。最後の二行
から盲腸の手術を想像した。切り取られた盲腸。それを「死」と呼ぶところにこの詩の「核」がある。死を排除して、嵯峨は生き続ける。--というような「意味」を誘い込む飛躍がある。
「比喩」はものの言いかえではなく、そこにある「もの」(向き合っているもの)をいったん忘れ去り(解体し、脱構築し、と流行言語では言うかもしれない)、「無(混沌)」へたどりつき、そこからもう一度、「いま」へ戻ってくる運動。「分節」されたものを「未分節」へもどし、再度「分節」しなおす運動。
盲腸。体内で異変を起こし、化膿している。機能しなくなっている。死んでいる。それをそのままにしておくと、肉体全体に影響する。だから、その小さな死を、肉体の連続(未分節)から分離し(分節し)、肉体を健全な状態にもどす。その肉体の内部へ入り込み(未分節の世界へ入り込み)、そこから盲腸を盲腸ではなく「死」ということばで分節しなおし、排除する。
未分節をくぐりぬけた盲腸は、最初に痛みをもたらした盲腸と同じものではあっても、同じではない。「意味」が違ってきている。「死」ということばで定義し直されて、別なものになっている。違った意味になっているけれど、また、同じものでもある。「定義」というのは瞬間的な方便であって、こだわりすぎてはいけない。運動そのもの、「比喩」を運動のエネルギーとして感じ取るということが必要なのだと思う。
あ、書いていることが、だんだんややこしくなってきた。ここまでにしておいて、少し視点を変える。
この詩の核は「死」ということば、その「比喩」の動き方にあるのだけれど、あまりにも意味が強すぎる。私は、その行よりも、前半の手術が終わり、麻酔から醒めてくるときの描写が好きである。特に、
という一行が好きだ。「暗く」から「鮮やか」に変わるという自然な状態(そう見えるようになるという肉体の運動)が、そのまま肉体の回復につながる。それが、読んでいて、うれしい。
39 深夜
「弟妹に」という注釈。「わたしは疲れているので」と書き出されているが、「わたし」のことを書いているのではなく、弟と妹に呼びかけているのだろう。
「……しよう」の繰り返しが、おだやかなリズムとなっている。二度繰り返されると、次もきっと「……しよう」ということばがつづくと想像できる。そのため、「……しよう」の前のことばに意識を集中させて聞くことができる。(読むことができる。)
で、ちょっと複雑なことが書かれる。
知らないことばがないので、すっと読んでしまうが、「夜をみちびき入れる」という表現は、変わっている。夜は導き入れなくても自然にやってくる。拒もうとしても、拒めない。
夜なので、もう何もしないで休息しよう(休もう)、休息(休み)のなかで「怒り」も休ませよう、眠らせよう(落ち着かせよう)というのは、「現実的」だが(日常、だれもがすること、体験したことだが)、休息の「なかに」夜を導き入れるというのは、「現実的」ではない。
ことばのなかだけで表現できる、一種の「嘘」、虚構である。
で、その「嘘」が、詩である。
単なる夜ではなく「大きな」夜--その「大きな」に嵯峨の意識が集中していく。何度も言い直し、「大きな夜」、その夜の「大きさ」を語り直す。
「大きい」は「限りないひろがり」であり、「遠いところ」とも関係している。「遠い」というのは距離の「大きさ」でもある。夜は暗くて何も見えないが、ほんとうは限りない大きさ、ひろがり、豊かさをもっている。その「豊か」なものを導き入れよう、自分のものにしよう、と嵯峨は弟と妹に語っている。
大きなもの、豊かなもの、って何? 嵯峨は最後にもう一度言いなおす。
「まだ歌にならぬ」という「比喩」のなかに、「大きさ/豊かさ」がある。「まだ歌にならぬ」とは「歌」として「分節されていない/未分節」の状態ということ。「無/混沌」とした、エネルギーだけが存在する状態。そこから新しい「音階」、新しい「歌」がはじまる。「分節」がはじまる。「未来」がはじまる。
きょうあったことは忘れてしまい(「無我」になり)、まだきまった形のない状態(未分節/無我)をとおりぬけて、また新しく生きはじめよう、と語りかけている。
弟、妹に語りかけていると先に書いたが、嵯峨は自分自身のなかに生きている「幼いわたし」に語りかけているという感じがする。
でも、こんなふうに「意味」だらけにしてしまうと、詩は、おもしろくないね。
いま書いたことは、さっと忘れて(なかったことこにして)、私は、その前の三行に帰ろう。
眠っている子が、夢のなかでふっと微笑み、それが顔に出てくる。あ、何かいいことがあったんだな。そのときの、幼い子の表情が見える--「運命」という抽象的なことばがあいだにあるのだけれど、子のあかるい微笑みが具体的に見えてくるこの三行が美しくていいなあ、と思う。
「宮崎病院」という注釈。最後の二行
いま金いろの天秤(はかり)で計つているのは
たしかにわたしの切りとられた小さな死です
から盲腸の手術を想像した。切り取られた盲腸。それを「死」と呼ぶところにこの詩の「核」がある。死を排除して、嵯峨は生き続ける。--というような「意味」を誘い込む飛躍がある。
「比喩」はものの言いかえではなく、そこにある「もの」(向き合っているもの)をいったん忘れ去り(解体し、脱構築し、と流行言語では言うかもしれない)、「無(混沌)」へたどりつき、そこからもう一度、「いま」へ戻ってくる運動。「分節」されたものを「未分節」へもどし、再度「分節」しなおす運動。
盲腸。体内で異変を起こし、化膿している。機能しなくなっている。死んでいる。それをそのままにしておくと、肉体全体に影響する。だから、その小さな死を、肉体の連続(未分節)から分離し(分節し)、肉体を健全な状態にもどす。その肉体の内部へ入り込み(未分節の世界へ入り込み)、そこから盲腸を盲腸ではなく「死」ということばで分節しなおし、排除する。
未分節をくぐりぬけた盲腸は、最初に痛みをもたらした盲腸と同じものではあっても、同じではない。「意味」が違ってきている。「死」ということばで定義し直されて、別なものになっている。違った意味になっているけれど、また、同じものでもある。「定義」というのは瞬間的な方便であって、こだわりすぎてはいけない。運動そのもの、「比喩」を運動のエネルギーとして感じ取るということが必要なのだと思う。
あ、書いていることが、だんだんややこしくなってきた。ここまでにしておいて、少し視点を変える。
この詩の核は「死」ということば、その「比喩」の動き方にあるのだけれど、あまりにも意味が強すぎる。私は、その行よりも、前半の手術が終わり、麻酔から醒めてくるときの描写が好きである。特に、
暗くみえていたゼラニウムの花が鮮やかな紅いろに変りました
という一行が好きだ。「暗く」から「鮮やか」に変わるという自然な状態(そう見えるようになるという肉体の運動)が、そのまま肉体の回復につながる。それが、読んでいて、うれしい。
39 深夜
「弟妹に」という注釈。「わたしは疲れているので」と書き出されているが、「わたし」のことを書いているのではなく、弟と妹に呼びかけているのだろう。
二つの日のあいだの戸を閉じて休もう
そして一日の怒りをすつかり忘れよう
「……しよう」の繰り返しが、おだやかなリズムとなっている。二度繰り返されると、次もきっと「……しよう」ということばがつづくと想像できる。そのため、「……しよう」の前のことばに意識を集中させて聞くことができる。(読むことができる。)
で、ちょっと複雑なことが書かれる。
休息のなかに大きな夜をみちびき入れよう
知らないことばがないので、すっと読んでしまうが、「夜をみちびき入れる」という表現は、変わっている。夜は導き入れなくても自然にやってくる。拒もうとしても、拒めない。
夜なので、もう何もしないで休息しよう(休もう)、休息(休み)のなかで「怒り」も休ませよう、眠らせよう(落ち着かせよう)というのは、「現実的」だが(日常、だれもがすること、体験したことだが)、休息の「なかに」夜を導き入れるというのは、「現実的」ではない。
ことばのなかだけで表現できる、一種の「嘘」、虚構である。
で、その「嘘」が、詩である。
単なる夜ではなく「大きな」夜--その「大きな」に嵯峨の意識が集中していく。何度も言い直し、「大きな夜」、その夜の「大きさ」を語り直す。
限りないひろがりが遠いところでその口を少しずつゆるめている
「大きい」は「限りないひろがり」であり、「遠いところ」とも関係している。「遠い」というのは距離の「大きさ」でもある。夜は暗くて何も見えないが、ほんとうは限りない大きさ、ひろがり、豊かさをもっている。その「豊か」なものを導き入れよう、自分のものにしよう、と嵯峨は弟と妹に語っている。
大きなもの、豊かなもの、って何? 嵯峨は最後にもう一度言いなおす。
まだ歌にならぬ音階の上を
はやくも未来がしずかに歩みよる
「まだ歌にならぬ」という「比喩」のなかに、「大きさ/豊かさ」がある。「まだ歌にならぬ」とは「歌」として「分節されていない/未分節」の状態ということ。「無/混沌」とした、エネルギーだけが存在する状態。そこから新しい「音階」、新しい「歌」がはじまる。「分節」がはじまる。「未来」がはじまる。
きょうあったことは忘れてしまい(「無我」になり)、まだきまった形のない状態(未分節/無我)をとおりぬけて、また新しく生きはじめよう、と語りかけている。
弟、妹に語りかけていると先に書いたが、嵯峨は自分自身のなかに生きている「幼いわたし」に語りかけているという感じがする。
でも、こんなふうに「意味」だらけにしてしまうと、詩は、おもしろくないね。
いま書いたことは、さっと忘れて(なかったことこにして)、私は、その前の三行に帰ろう。
子供たちはまるめた手足のなかに小さく眠りこみ
ふとどこかで出会う運命に
それと知らずかすかに微笑みかける
眠っている子が、夢のなかでふっと微笑み、それが顔に出てくる。あ、何かいいことがあったんだな。そのときの、幼い子の表情が見える--「運命」という抽象的なことばがあいだにあるのだけれど、子のあかるい微笑みが具体的に見えてくるこの三行が美しくていいなあ、と思う。
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