仲山清『文学ゴッコのやんま堂』(2)(ワニ・プロダクション、2008年12月22日発行)
昨日の日記に書いた井本元義『レ モ ノワール』はことばの数学を「文学」のことばで台無しにしていた。「踊り子の舞い」というようなことばが古すぎて現在とあわないのだ。ただ、すべての古いことばが詩に向かないかというと、そうでもない。
仲山清『文学ゴッコのやんま堂』のおもしろさは詩に「雲形定規」を持ち込んだことである。雲形定規をいまでも設計士が使うのかどうか私は知らない。いまはもっと便利なシステムがあるかもしれない。しかし、それでも「雲形定規」がおもしろいのは、使われないなら使われないで、いまもそれにこだわっているという姿勢が新鮮なのだ。そこに描かれている対象がどんなに古くても、それがいまの肉体と直接関係していればそれでおもしろくなるのだ。
「もの」と「ことば」は、現実の中ではほとんど同時にあらわれる。新しい存在は新しい名前とともに現実に登場する。i Pod は「i Pod 」ということばとともに私たちの目の前にあらわれた。政治の世界では、少し逆のことが起きる。「スキーム」というようなことばは、それが何を意味するか多くの人がわからないうちに使われ、マスコミを通じて社会に流される。それが意味するところを不明確にすることで、国民の多くをだますためである。だますということばに語弊があるとすれば、批判がすぐに返って来ないようにするためである。「わからないことば」で語られたとき、それに対して質問し、反論するにはある程度時間が必要である。そのときの「ある程度」の時間を利用して、政治家はものごとを進めてしまう。
文学ではどうだろう。
ことばは遅れてやってくる。こころはいろいろなことを思うけれど、それはすぐにことばになるわけではない。どう言っていいかわからない現実の前で、私たちはことばをなくす。正確には、ことばがどこにあるか探し出せない。阪神大震災のあと、詩は、ずいぶん遅れてやってきた。現実と肉体がきちんと向き合い、ことばとして納得できるようになるまでには時間がかかるのだ。
一方、生活になじんだことばはことばで、なかなか「文学」のなかへは進んでいかない。「文学」のなかに登場しなくても、ことばそのものにとって、不利益が生じるわけではない。たとえば「雲形定規」は「文学」として書かれなくても、そのことばはいっこうに気にしないだろう。そして、そんなふうに「文学」から遠くにあることばが「文学」に登場すると、とたんに「文学」はおもしろくなる。
「もの」「ことば」は、それぞれ「暮らし」を持っているからである。人間だけではなく、「もの」も生活しているのである。そのときの「距離」がことばとなって、作品に一定の制限を設けるからである。その制限がつくりだす空間が他のことばに影響し、いつもと違った運動をさせるからである。この運動の変化に敏感なひとの詩はおもしろい。仲山清の『文学ゴッコのやんま堂』はそういうおもしろさでできているのだ。
ことばはいつでもそれ自体で運動する。そういう運動に敏感だと、ことばがいきいきしてくる。
「くもがたかなた」という作品。
何が書いてあるかわからないでしょ? そこがいいのだ。「雲形定規」が突然現実にあらわれたら、どうしていいかわからないでしょ? それはようするに、「わからないけれど現実に存在するもの」なのだ。もちろん「雲形定規」を知っているひとは、もしかすると、これは「設計士」のだれかかな、と思う。製図を書くとき、いつも「独りごと」を言っているんだな、と連想する。その連想が正しいか、間違っているかはどうでもいい。作者のかこうとしたことと、読者の読みたいことは一致しなくてもかまわない。それが文学だ。
今どき「雲形定規」を使う設計士なんて、きっと曲者である。かわりものである。変に頑固なところがあるに決まっている。(と、私は思う。)その頑固さ、かたくなな感じが、その後のことばの運動を支配する。そして、それが同じ運動でつづくとき、それは美しい詩になるのだ。
「雲形定規」は「独りごと」と共存するものなのだ。「腐りかけた野菜」とも「冷えきらない魂」とも共存している。ときどき見分けがつかなくなる。「雲形定規」が「雲形定規」であるためには、つまり、世界にきちんと流通する形にするためには、だれもが利用できる形にするためには、そういうものを「ひきぬく」必要がある。
別なことばで言うと。
ある人がいる。その人は有能である。けれど、ちょんと癖がある。こだわりがある。変だなあ。あのこだわり、あの癖がなければ、もっと世界で通用するのになあ……というような感じ。そういうことが、ここでは、「雲形定規」にことよせて書かれているのである。そういう暮らしが、生き方が「雲形定規」にことよせて書かれているのである。
何が書かれているかわからない。けれども、ここにはある特別な「空気」が書かれていて、その「空気」の書き方には一定の法則がある。そう感じさせるものが詩である。文学である。
どういうことばを、その「空気」の出発点にするか。その「空気」のために、どんなことばを選ぶか--そういうことが大切なことなのだ。仲山はこの詩集で、「雲形定規」を発見している。その存在は現実には新しくはない。しかし、文学としては新しい。ことばが文学になるまでには時間がかかり、あることばは文学になったとたんに古びたりもする。(たとえば、「踊り子の舞い」である。)ことばを古びさせないためには、それは動かしつづけなければならない。
「くもがたかなた」の3連目、4連目。
この過激さ。いいなあ。
いろんなことばが、必要もないのに飛び交っている事務所。そこに、何が原因かわからないけれど、誰かが誰かに対して「しね」と言う。瞬間、事務所がシーンとする。
設計事務所の人間関係がふわーっと浮いてくる。それは設計事務所だけではなく、あらゆる「会社」の事務所の人間関係に通じる。こういうことばを運動を読むと、あ、私の会社にはなぜ「雲形定規」を使う仕事がないんだろう、もしあれば、これとそっくりのことを見られるのに……となんだか悔しい気持ちになる。「雲形定規」を使う仕事をしているひとのことろへ会いに行きたくなる。いや、そういう「仕事」をのぞきに行きたくなる。
こんな気持ちをひきだしてくれるのは、とてもいい詩である証拠だ。
昨日の日記に書いた井本元義『レ モ ノワール』はことばの数学を「文学」のことばで台無しにしていた。「踊り子の舞い」というようなことばが古すぎて現在とあわないのだ。ただ、すべての古いことばが詩に向かないかというと、そうでもない。
仲山清『文学ゴッコのやんま堂』のおもしろさは詩に「雲形定規」を持ち込んだことである。雲形定規をいまでも設計士が使うのかどうか私は知らない。いまはもっと便利なシステムがあるかもしれない。しかし、それでも「雲形定規」がおもしろいのは、使われないなら使われないで、いまもそれにこだわっているという姿勢が新鮮なのだ。そこに描かれている対象がどんなに古くても、それがいまの肉体と直接関係していればそれでおもしろくなるのだ。
「もの」と「ことば」は、現実の中ではほとんど同時にあらわれる。新しい存在は新しい名前とともに現実に登場する。i Pod は「i Pod 」ということばとともに私たちの目の前にあらわれた。政治の世界では、少し逆のことが起きる。「スキーム」というようなことばは、それが何を意味するか多くの人がわからないうちに使われ、マスコミを通じて社会に流される。それが意味するところを不明確にすることで、国民の多くをだますためである。だますということばに語弊があるとすれば、批判がすぐに返って来ないようにするためである。「わからないことば」で語られたとき、それに対して質問し、反論するにはある程度時間が必要である。そのときの「ある程度」の時間を利用して、政治家はものごとを進めてしまう。
文学ではどうだろう。
ことばは遅れてやってくる。こころはいろいろなことを思うけれど、それはすぐにことばになるわけではない。どう言っていいかわからない現実の前で、私たちはことばをなくす。正確には、ことばがどこにあるか探し出せない。阪神大震災のあと、詩は、ずいぶん遅れてやってきた。現実と肉体がきちんと向き合い、ことばとして納得できるようになるまでには時間がかかるのだ。
一方、生活になじんだことばはことばで、なかなか「文学」のなかへは進んでいかない。「文学」のなかに登場しなくても、ことばそのものにとって、不利益が生じるわけではない。たとえば「雲形定規」は「文学」として書かれなくても、そのことばはいっこうに気にしないだろう。そして、そんなふうに「文学」から遠くにあることばが「文学」に登場すると、とたんに「文学」はおもしろくなる。
「もの」「ことば」は、それぞれ「暮らし」を持っているからである。人間だけではなく、「もの」も生活しているのである。そのときの「距離」がことばとなって、作品に一定の制限を設けるからである。その制限がつくりだす空間が他のことばに影響し、いつもと違った運動をさせるからである。この運動の変化に敏感なひとの詩はおもしろい。仲山清の『文学ゴッコのやんま堂』はそういうおもしろさでできているのだ。
ことばはいつでもそれ自体で運動する。そういう運動に敏感だと、ことばがいきいきしてくる。
「くもがたかなた」という作品。
雲形定規から私語をとりのぞく
とりわけ独りごとを
腐りかけた野菜を
ひえきらない魂をひきぬく。
何が書いてあるかわからないでしょ? そこがいいのだ。「雲形定規」が突然現実にあらわれたら、どうしていいかわからないでしょ? それはようするに、「わからないけれど現実に存在するもの」なのだ。もちろん「雲形定規」を知っているひとは、もしかすると、これは「設計士」のだれかかな、と思う。製図を書くとき、いつも「独りごと」を言っているんだな、と連想する。その連想が正しいか、間違っているかはどうでもいい。作者のかこうとしたことと、読者の読みたいことは一致しなくてもかまわない。それが文学だ。
今どき「雲形定規」を使う設計士なんて、きっと曲者である。かわりものである。変に頑固なところがあるに決まっている。(と、私は思う。)その頑固さ、かたくなな感じが、その後のことばの運動を支配する。そして、それが同じ運動でつづくとき、それは美しい詩になるのだ。
「雲形定規」は「独りごと」と共存するものなのだ。「腐りかけた野菜」とも「冷えきらない魂」とも共存している。ときどき見分けがつかなくなる。「雲形定規」が「雲形定規」であるためには、つまり、世界にきちんと流通する形にするためには、だれもが利用できる形にするためには、そういうものを「ひきぬく」必要がある。
別なことばで言うと。
ある人がいる。その人は有能である。けれど、ちょんと癖がある。こだわりがある。変だなあ。あのこだわり、あの癖がなければ、もっと世界で通用するのになあ……というような感じ。そういうことが、ここでは、「雲形定規」にことよせて書かれているのである。そういう暮らしが、生き方が「雲形定規」にことよせて書かれているのである。
何が書かれているかわからない。けれども、ここにはある特別な「空気」が書かれていて、その「空気」の書き方には一定の法則がある。そう感じさせるものが詩である。文学である。
どういうことばを、その「空気」の出発点にするか。その「空気」のために、どんなことばを選ぶか--そういうことが大切なことなのだ。仲山はこの詩集で、「雲形定規」を発見している。その存在は現実には新しくはない。しかし、文学としては新しい。ことばが文学になるまでには時間がかかり、あることばは文学になったとたんに古びたりもする。(たとえば、「踊り子の舞い」である。)ことばを古びさせないためには、それは動かしつづけなければならない。
「くもがたかなた」の3連目、4連目。
雲形といいつつ
雲にはありえない鋭角をかかえ
といをながれる雨音のようなものが
折れ曲がって男にささやく
しね、と。
私語がやむ
独りごとも
せきばらいも。
雨どいのながれの音も
尻すぼみに立ち消え
いちまいの雲形定規がつっぷす。
この過激さ。いいなあ。
いろんなことばが、必要もないのに飛び交っている事務所。そこに、何が原因かわからないけれど、誰かが誰かに対して「しね」と言う。瞬間、事務所がシーンとする。
設計事務所の人間関係がふわーっと浮いてくる。それは設計事務所だけではなく、あらゆる「会社」の事務所の人間関係に通じる。こういうことばを運動を読むと、あ、私の会社にはなぜ「雲形定規」を使う仕事がないんだろう、もしあれば、これとそっくりのことを見られるのに……となんだか悔しい気持ちになる。「雲形定規」を使う仕事をしているひとのことろへ会いに行きたくなる。いや、そういう「仕事」をのぞきに行きたくなる。
こんな気持ちをひきだしてくれるのは、とてもいい詩である証拠だ。