goo blog サービス終了のお知らせ 

詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(84)

2019-08-11 12:43:25 | 嵯峨信之/動詞
* (夜は雨になつた)

若い日は蓼のように匂う
待つということは少しの時も過ぎさることがない

 「蓼(たで)」は田舎ではよく見る草である。私は匂いを意識したことがない。嵯峨は匂いを嗅いだことがあるのだろう。どんな匂いか、私は言うことができないのだが、「若い日」を「匂う」という動詞でとらえているのがおもしろい。これは「匂いを発する」というくらいの意味だろう。つまり、何もしなくても内部からあふれてくるものがあるのが「若さ」。
 そういうものを肉体に抱え込みながら「待つ」。その「待つ」を「時が過ぎさることがない」と別の角度からとらえなおす。「時」は「蓼の匂い」のようにあふれていかないのか。そうではなくて、あふれてもあふれてもなおかつなくなることがない。
 なくならないもの(過ぎさることがないもの)が「ある」と書いている。




*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。
私あてにメール(yachisyuso@gmail.com)でも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「慰安婦」の問題(追加) | トップ | 坂多瑩子『さんぽさんぽ』 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

嵯峨信之/動詞」カテゴリの最新記事