詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

峯澤典子『あのとき冬の子どもたち』

2017-02-15 16:57:05 | 詩集
峯澤典子『あのとき冬の子どもたち』(七月堂、2017年02月01日発行)

 峯澤典子『あのとき冬の子どもたち』は外国を旅行したときの詩を集めているのだろうか。

バスに揺られているあいだは
息が吸える気がした
遠ざかってゆく、のか
近づいて行くのか
もう誰にもわからなくなっていたから          (「パリ、16時55分着」)

 「わからない」こと、決定しないことによって、「肉体」が解放される。新しく生き始める。不安があるかもしれないが、それが逆に「生きている」を静かに刺戟する。「遠ざかってゆく、のか/近づいて行くのか」という反対のことが、そのまま「いのち」になってゆく。「息が吸える」のなかで生きている「肉体」が強い。

ゆく、も
帰る、も
いちどに見失い                          (「夜行」)

 というような行も見える。
 そういうことばのなかにあって、

動かない回転店木馬のそばで
雨がつづいていることに
ひとり 安心している                       (「滞在」)

 の「雨がつづいている」と「安心」の結びつきが、とても印象に残る。「時間」がたしかにそこに存在する。「時間」が「つづいている」ということのなかで、自分が「つづいている」を呼び覚ます。
 これは「冬祭り」という詩のなかで、美しく結晶する。

まだ暗い部屋で目をさます
ぱちぱちと 古い本が燃える匂い
雨か それとも
はぐれた鹿が枯れた枝を踏む音
みずうみか 森が近いのだろうか
方角やことばがわからないぶんだけ
旅の空はくもってしまうのだから
カーテンはいくら開いても
何も見ないためにここまで来たと
信じてもいいほどの霧

あれは雨でも けものでもなく
見る、という時間が
この霧に許されて
少しずつ燃え落ちてゆく合図だとしたら

昨日 車窓を流れていた駅の名や
数年前に離れていったひとの頬
そうした目に焼きついたもののすべてが
いつかすれ違った冬祭りの少女たちのように
白い息だけを
どこまでもまとって
閉ざされた冬を抜け
みずうみをまわり
森の緑へと放たれてゆく

 「見る」は「見た」という「過去」となり、これから新しく「見る」という「未来」を生み出していく。「時間」そのものを再生させる。
 「古い本」あるいは「枯れ木」を「燃やす(燃える)」から始まり、「森の緑」へと動いていく自然な強さ。それを峯澤は読者を誘い込む静かさで書いている。

 後半の「桃」「校庭」は日本でのことを書いていると思うが、この二篇も美しい。桃を買って帰る、そのことが

そのことが
帰り道を明るくした
やっと迷わなくなった道で
顔をあげてもいい明るさだった

 この「発見」が特に美しい。「発見」は、この場合、最初からそこにあったものをみつけるというよりも、峯澤が「生み出した」もの。「発明」といったほうがいい「明るさ」である。


ひかりの途上で
クリエーター情報なし
七月堂

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1 コメント

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Unknown (通りすがり)
2017-02-15 18:35:35
谷内修三さん?
現代詩手帖で「水の周辺」というシリーズを書いていましたよね?
硬質な文体が印象に残っています。
同時期、私は佳作止まりで結局入選できませんでした。
懐かしい。
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