詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

伊藤浩子『未知への逸脱のために』

2017-02-16 10:00:29 | 詩集
伊藤浩子『未知への逸脱のために』(思潮社、2016年10月30日発行)

 伊藤浩子『未知への逸脱のために』は「意味」が先走る。タイトルもそうだが、「未知」「逸脱」ということばにはすでに「意味」が存在し、しかもその「意味」は伊藤のなかで完結している。まるで「翻訳」を読んでいる気持ちになる。「意味」は「原典」(伊藤の頭のなか)に存在していて、その「解説」を「日本語(読者に理解できることば)」で聞かされてる感じ。伊藤の「肉体」が直接ことばをつかみとっている、「肉体」とことばがぶつかっているという感じがしない。

沈黙を纏ったひと
霊歌よりも深く奏でるひと
物語りにこまやかに自由を編むひと
その肩を抱いてもいい?
星座と 流された血と 記されなかった文字とで
黝い波の果てに訊ねている            (「日々の痕跡」《モード》10)

 「意味」は「過去」と言ってもいい。「沈黙」と「霊歌」、「霊歌」と「物語」をつなぐ「過去」、「星座」と「血」をつなぐ「過去」というものがある。ただし、それは伊藤の「肉体」というよりも伊藤の「頭」のなかに「意味」として存在している。
 「意味」が確立している、ととらえればいいのかもしれないが、確立してしまっている「意味」なら詩にする必要はないだろうと思う。「意味」以前のものを「ことば」そのものとして生み出していくのが詩だと私は思っている。
 「In The Room 」の部分。

日常がいくらかでも遠ざかっているうちに、からだの部位をなぞり、
影の吐息を映し出している、ほどけたのは、曇り硝子だったか、波
の記憶だったか、それとも。

 「ほどけたのは、曇り硝子だったか」ということばは、その直前の「影の吐息」と重なることで「肉体」にかわる。ほどけたのは「肉体(吐息)」だったか、「曇り硝子」だったか。断定をこばむことで、それが「ひとつ」に融合する。
 こういう部分はおもしろいと思うが、「からだの部位」の「部位」が「意味」でありすぎる。「なぞる」とき、「からだ」は「部位」なのか。「部位」としてとらえてしまう「頭脳」の強さが、私は嫌い。言い換えると、私はこういう「頭脳の強さ」というものを信用していない。
 「In The Room 」に通じることだが、「予兆、そしてエロチシズムという不安の」の書き出し。

海の見えるホテルのひとつめの部屋に浮かぶ岩は悲哀。
親殺しの無色の薔薇に由来する、夏だったかもしれない、嵐だった
かもしれない。あるいは裕福な庭園の外れなのかもしれなかったが。

 「岩」は「悲哀」の象徴か、「悲哀」の象徴が「岩」か。どっちでもいいが(どっちでもいいということはない、と「頭脳派」伊藤は言うだろうが)、この相互が断定が、とても「翻訳」っぽい。「肉体」ではなく「知識」が入り込んでいる。「翻訳」っぽく感じるのは、こういう断定が西欧の文体の特徴だからかもしれない。「もの」と「概念(感情というよりも、悲哀とは何か、という概念)」の結合。そこに詩を感じるためには、まず「概念の歴史」というものを持たなければならない。私は「概念の歴史」というものには興味がないので、どうしても「遠い世界」に思えてしまう。ついていけない。
 「エロチシズム」というのは「肉体」で感じるものだと思っているが、伊藤は「頭脳」で「理解」しているのだろうか。
 繰り返される「かもしれない」は「頭脳」の揺らぎである。「肉体」は揺らいでいない。「親殺し」も実際に親を殺すという「動詞」ではなく、「親殺し」という「名詞」になってしまっている。「名詞」だから、平然と「無色の薔薇」という比喩と結びつく。あ、「無色の薔薇」は「親殺し」の「象徴」として働いていると言うべきなのかな?
 「岩」の変遷を見ていくと、伊藤の「翻訳」好みがさらにわかりやすいかもしれない。
ふたつめの部屋の岩は愉悦。

みっつめの部屋のもっとも大きな岩は未来。

 「悲哀」「愉悦」「未来」。この熟語を、私の「肉体」は繋ぐことができない。「悲哀(感情)」「愉悦(官能)」は、まだ「肉体」のなかに「ある」といえるかもしれない。「悲哀」「愉悦」は「肉体」であると言えるかもしれない。しかし「未来(存在しない時間)」を「肉体」であると呼ぶのは、私にはできない。

みっつめの部屋のもっとも大きな岩は未来。
欠落を見落とした不機嫌な妖精がつくる、夜と昼とを無知と智慧と
で跋扈せよ。
そして断絶も境界も拒みながら光のように、

 私は「妖精」を見たことがないから、そんなものが何かを「つくる」とは思わない。むしろ「無知と智慧」というものが「妖精」をつくりだしているのと思う。「頭脳」がつくりだしているのだと思う。
 それはそれで、いいのかもしれないが。
 この詩の最終行。

あなたはますますかるくすばやく生まれ変わる。

 「妖精」は「かるく」「すばやく」ということばになって動いている。「生まれ変わる」とは「エクスタシー」、自分の外へ出て行ってしまう、自分でありながら自分ではなくなるということであり、それが「エロチシズム」の力と言うことになるのだが。
 うーん。
 「結論」だけ整えられてもなあ、と思う。

 「結論」をこわす、「意味」をこわすのが詩ではないだろうか。
 「頭脳派」の詩人の作品を読むたびに、私は苦しくなる。「頭脳派」のひとが悪いのではなく、私の頭が悪いだけなのだが、頭の悪い人間というのは自分は頭が悪いということを認めたくないので、頭のいい人に文句を言うのである。
 まあ、そう思ってください、はい。

未知への逸脱のために
伊藤 浩子
思潮社

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 峯澤典子『あのとき冬の子ど... | トップ | 山下晴代『今はもう誰も杉村... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

詩集」カテゴリの最新記事