前田實「たまゆら」(「ガニメデ」36)。
死んだ男が生き返る話してある。表記の仕方がおもしろい。
「代名し」「邪あく」というように漢字とひらがながの交ぜ書きになっている。書かれていることはそんなに目新しい(?)ことではなく、よみがえりの、あれこれ聞いたような話なのだが、交ぜ書きがことばの距離感をあいまいにする。近づいてきたと思ったらゆっくり遠ざかる。遠ざかったと思ったらぱっと近づいてくる。そのリズムが文字を読んでいるのに声を聞いている感じがする。声を聞いている感じに似ている。ひとの話はふいに親身に感じられたりどうでもいいものに感じられたりするものだが、そういう肉声だけが持っている揺らぎの感じがおもしろい。その感じが、書かれている内容と一致しているようで楽しい。
前田は同じ号に「ずれる」という作品も書いている。こちらはよみがえりというような「まゆつば」の話ではなく、夫婦の日常である。
ここでも「想ぞう」のように漢字、ひらがなの交ぜ書きが登場する。タイトルがそうなっているからいうのではないのだが、この交ぜ書きによって、私の感覚は微妙に「ずれ」る。めのずれのなかに、たぶん、前田がいる。
ことばのなかにある時間の感覚、すっと動くものと、ねっとりと動くもの。それを前田は見ようとしているのかもしれない。
*
同じ「ガニメデ」の沼谷香澄の「むすりまタン」のタイトルで短歌を書いている。自在な音楽が楽しい。
一方、音とはあまり関係なく、表記をいじっただけのものもある。
ちょっと古いと思う。「白妙の衣干すてふ…」の音楽にも負けていると思う。せっかくなのだから、もっと音楽を解放してほしい。
死んだ男が生き返る話してある。表記の仕方がおもしろい。
墓穴からやっとはいだし 自分でもどうしていたのか分からないうちに わが家にたどりついたのだ そのときは後あと俺の名をきょうふの代名しのようによんだあの邪あくな怪異はあらわれず しばらくの間それはつづいたのだ
「代名し」「邪あく」というように漢字とひらがながの交ぜ書きになっている。書かれていることはそんなに目新しい(?)ことではなく、よみがえりの、あれこれ聞いたような話なのだが、交ぜ書きがことばの距離感をあいまいにする。近づいてきたと思ったらゆっくり遠ざかる。遠ざかったと思ったらぱっと近づいてくる。そのリズムが文字を読んでいるのに声を聞いている感じがする。声を聞いている感じに似ている。ひとの話はふいに親身に感じられたりどうでもいいものに感じられたりするものだが、そういう肉声だけが持っている揺らぎの感じがおもしろい。その感じが、書かれている内容と一致しているようで楽しい。
前田は同じ号に「ずれる」という作品も書いている。こちらはよみがえりというような「まゆつば」の話ではなく、夫婦の日常である。
百五拾年もつづくふるい大きな家に
つまとふたりで住んでいる
いつも同じにみえる家のなかも
一秒ごと ゆるやかに変っていく
想ぞう以上にゆっくりなのだが
ここのところ
一つへんかがあった
ここでも「想ぞう」のように漢字、ひらがなの交ぜ書きが登場する。タイトルがそうなっているからいうのではないのだが、この交ぜ書きによって、私の感覚は微妙に「ずれ」る。めのずれのなかに、たぶん、前田がいる。
ことばのなかにある時間の感覚、すっと動くものと、ねっとりと動くもの。それを前田は見ようとしているのかもしれない。
*
同じ「ガニメデ」の沼谷香澄の「むすりまタン」のタイトルで短歌を書いている。自在な音楽が楽しい。
中庭のユーカリの影にぱぱとまま。わたしコアラちゃんなのえへへ。
もふもふの、ああもふもふの家族部屋、ピクミン2のフィギュアを踏んだ
あのねのね、ミレットなの、ちゅうりっぷ、おやゆび王子がアザーンするの
一方、音とはあまり関係なく、表記をいじっただけのものもある。
昨日着てた、ままのブルカが干されてる色とりどりの香をしたたらせ
ちょっと古いと思う。「白妙の衣干すてふ…」の音楽にも負けていると思う。せっかくなのだから、もっと音楽を解放してほしい。