谷川俊太郎『あたしとあなた』(2)(ナナロク社、2015年07月01日発行)
きのう書いた感想を少し書き直す。「音楽」という作品。
2連目。
一連目の「遠く」を「ヘッドフォンから/じゃない」と言い直している。
この「遠近」の肉体感覚に私は「頭」を叩き割られた感じがする。「遠く」ということばから、どうしても山の向こうとか、宇宙の彼方とかを想像してしまう。そしてそういうとき私の「肉体」は動いていない。「頭」だけで想像している。「定型」を想像しているだけだ。
「遠く」を想像する(考える)とき同時に「近く」を想像することはない。いま、むりやり想像してみたとしても「近く」なら、部屋の隅とか、開けた窓の外くらいを思い浮かべる。ヘッドフォンのように肉体に密着した「近さ」というものを考えない。
そのために「遠く」を「ヘッドフォンから/じゃない」と言い直していることに、つよい衝撃を受けたのだ。
谷川は「肉体」でことばを書いている。「肉体」で詩を書いていると、強く感じたのだ。
「ヘッドフォン」はまた「音楽」の言い直しでもある。谷川は、「音楽」は「機械(ヘッドフォン)」からは聞こえてこない。別な場所から聞こえてくる。べつなところに鳴り響いていると言い直していることにもなる。
「遠/近」よりも「機械/自然・宇宙」という対比を語っているのかもしれない。「水平線」や「オーロラ」「草原」ということばは、そういうことを感じさせる。
しかし、これは、「頭」で整理した「論理」。
私は、やっぱり「ヘッドフォン」ということばといっしょにあらわれた「肉体」に衝撃を受けたのだ。ヘッドフォンを外したところには別の「肉体」があり、「音」を出している。奏でている。それが「音楽」として聞こえる、という「肉体」の感覚に衝撃を受けたのだ。
きのうと違う感想を書こうとして書きはじめたのだが、また、元へもどっていくような、ずれていくような、感じがする。私はいつでも「結論」を想定しないで、思いついたことをつなげていくので、書いているうちに思っていることが変わってしまう。
「脱線」も感想の重要な部分だと思うので、このままつづける。
「音楽」と「ヘッドフォン」。いまはあたりまえのようにして人はヘッドフォン(イヤフォン)から音楽を聴いている。電車に乗ってもバスに乗っても、イヤフォンをしたひとを見かける。歩いていても、そうである。
私はどちらかというと新しいもの好きなので、ウォークマンもiPODも買ってつかったがすぐに飽きてしまった。いまはつかっていない。ちっとも楽しくない。もともと音楽的な人間ではないし、イヤフォンをして音楽を聞くのがめんどうくさいと感じる。自分だけに聞こえる「音」というのは、聞くというよりも聞かされるという感じがして、何か気持ち悪いとも思うようになってしまった。
「ヘッドフォンから/じゃない」ということばに「頭」を叩き割られたと感じ、そこに「肉体」を感じたと同時に、私は瞬間的に「親近感」も感じた。
「音楽」はそんなところにはない。ヘッドフォン(イヤフォン)を外して、耳を開放したときに聞いてしまうもののなかにある。いま私は扇風機をかけながらキーボードを叩いている。そうすると右から扇風機のモーターの音が聞こえ、左からパソコン(古いデスクトップ)のモーターの音が聞こえる。前からキーボードを叩く音がする。その三種類の音が聞こえる。これは「何/音」、つまり「雑音」それとも「音楽」。わからないが、この三つの音の組み合わせをうまくことばにできたら、それは「音楽(詩)」になるだろうなあとも思う。
「肉体」の外にあって、「肉体」と交流しようとする「音」。逆かな。「肉体の外にある音」と交流しようと「肉体」が欲するとき、まだ始まる前の「音楽」が生まれていると感じる。私の聞きたい「音楽」は、そういうものなのかもしれない。
「ヘッドフォンから/じゃない」という二行は、そんなことも感じさせてくれたのだ。
*
私のブログを読んだ人は、どっちが「ほんとう」の感想? と疑問を持つかもしれない。どちらも「ほんとう」である。きのうはきのう書いたように感じた。いや、書きながら最初思っていることと少し違ったことを書いているかなとも感じてはいても、書きながら感想がかわっていくのは自然なことだし、そのままなりゆきにまかせて書いた。きょうはきょうで、きのう書けなかったことを書きたいなあと思って書きはじめる。その瞬間には「ほんとう」があるのだけれど、書いていると、ことばは「ほんとう」から少しずれて動いてしまう。「ほんとう」に感じていることというのは、まだことばにしたことがない何かなので、はっきりとはことばにできない。正確には書けない。どうしてもおぼえていることば、おぼえている書き方の方へ動いてしまう。これは、仕方がないことなのだと私は思っている。繰り返し繰り返し、少しずつ書き直していくしかない。
きのう書いた感想を少し書き直す。「音楽」という作品。
あたしの
音楽は
うんと
遠くから
聞こえて
くる
ヘッドフォンから
じゃない
もっと
遠く
あなたの
水平線を
越えて
あなたの
オーロラも
越えて
意味の
要らない
幻の
草原で
あたしは
チューバと
子どもみたいに
鬼ごっこ
2連目。
一連目の「遠く」を「ヘッドフォンから/じゃない」と言い直している。
この「遠近」の肉体感覚に私は「頭」を叩き割られた感じがする。「遠く」ということばから、どうしても山の向こうとか、宇宙の彼方とかを想像してしまう。そしてそういうとき私の「肉体」は動いていない。「頭」だけで想像している。「定型」を想像しているだけだ。
「遠く」を想像する(考える)とき同時に「近く」を想像することはない。いま、むりやり想像してみたとしても「近く」なら、部屋の隅とか、開けた窓の外くらいを思い浮かべる。ヘッドフォンのように肉体に密着した「近さ」というものを考えない。
そのために「遠く」を「ヘッドフォンから/じゃない」と言い直していることに、つよい衝撃を受けたのだ。
谷川は「肉体」でことばを書いている。「肉体」で詩を書いていると、強く感じたのだ。
「ヘッドフォン」はまた「音楽」の言い直しでもある。谷川は、「音楽」は「機械(ヘッドフォン)」からは聞こえてこない。別な場所から聞こえてくる。べつなところに鳴り響いていると言い直していることにもなる。
「遠/近」よりも「機械/自然・宇宙」という対比を語っているのかもしれない。「水平線」や「オーロラ」「草原」ということばは、そういうことを感じさせる。
しかし、これは、「頭」で整理した「論理」。
私は、やっぱり「ヘッドフォン」ということばといっしょにあらわれた「肉体」に衝撃を受けたのだ。ヘッドフォンを外したところには別の「肉体」があり、「音」を出している。奏でている。それが「音楽」として聞こえる、という「肉体」の感覚に衝撃を受けたのだ。
きのうと違う感想を書こうとして書きはじめたのだが、また、元へもどっていくような、ずれていくような、感じがする。私はいつでも「結論」を想定しないで、思いついたことをつなげていくので、書いているうちに思っていることが変わってしまう。
「脱線」も感想の重要な部分だと思うので、このままつづける。
「音楽」と「ヘッドフォン」。いまはあたりまえのようにして人はヘッドフォン(イヤフォン)から音楽を聴いている。電車に乗ってもバスに乗っても、イヤフォンをしたひとを見かける。歩いていても、そうである。
私はどちらかというと新しいもの好きなので、ウォークマンもiPODも買ってつかったがすぐに飽きてしまった。いまはつかっていない。ちっとも楽しくない。もともと音楽的な人間ではないし、イヤフォンをして音楽を聞くのがめんどうくさいと感じる。自分だけに聞こえる「音」というのは、聞くというよりも聞かされるという感じがして、何か気持ち悪いとも思うようになってしまった。
「ヘッドフォンから/じゃない」ということばに「頭」を叩き割られたと感じ、そこに「肉体」を感じたと同時に、私は瞬間的に「親近感」も感じた。
「音楽」はそんなところにはない。ヘッドフォン(イヤフォン)を外して、耳を開放したときに聞いてしまうもののなかにある。いま私は扇風機をかけながらキーボードを叩いている。そうすると右から扇風機のモーターの音が聞こえ、左からパソコン(古いデスクトップ)のモーターの音が聞こえる。前からキーボードを叩く音がする。その三種類の音が聞こえる。これは「何/音」、つまり「雑音」それとも「音楽」。わからないが、この三つの音の組み合わせをうまくことばにできたら、それは「音楽(詩)」になるだろうなあとも思う。
「肉体」の外にあって、「肉体」と交流しようとする「音」。逆かな。「肉体の外にある音」と交流しようと「肉体」が欲するとき、まだ始まる前の「音楽」が生まれていると感じる。私の聞きたい「音楽」は、そういうものなのかもしれない。
「ヘッドフォンから/じゃない」という二行は、そんなことも感じさせてくれたのだ。
*
私のブログを読んだ人は、どっちが「ほんとう」の感想? と疑問を持つかもしれない。どちらも「ほんとう」である。きのうはきのう書いたように感じた。いや、書きながら最初思っていることと少し違ったことを書いているかなとも感じてはいても、書きながら感想がかわっていくのは自然なことだし、そのままなりゆきにまかせて書いた。きょうはきょうで、きのう書けなかったことを書きたいなあと思って書きはじめる。その瞬間には「ほんとう」があるのだけれど、書いていると、ことばは「ほんとう」から少しずれて動いてしまう。「ほんとう」に感じていることというのは、まだことばにしたことがない何かなので、はっきりとはことばにできない。正確には書けない。どうしてもおぼえていることば、おぼえている書き方の方へ動いてしまう。これは、仕方がないことなのだと私は思っている。繰り返し繰り返し、少しずつ書き直していくしかない。
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