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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

マーサ・ナカムラ「丑年」、杉木澪「スプリング・フィールド」

2015-07-04 10:26:09 | 詩(雑誌・同人誌)
マーサ・ナカムラ「丑年」、杉木澪「スプリング・フィールド」(「現代詩手帖」2015年07月号)

 マーサ・ナカムラ「丑年」は「新人作品(投稿作品)」。文月悠光と朝吹亮二のふたりに選ばれている。6月号の作品には「石橋」が出てきた。今回は、育てた牛から干支の動物が生まれてきて、庭石に入っていくという不思議な話が組み込まれている。
 文月は「集落や十二支にまつわる伝承をうまく取り込んでいる。複数のエピソードを結びつけ、回収させる力を感じた。この世のものではない存在との交感が魅力的だ」と書いている。
 私は、しかし、その前に書かれている部分(一連目)がおもしろかった。

向かいから、白い親子が歩いてくる。白く発光する母親は、古風に赤ん坊を背中にくくっている。
「こんばんは」と声をかけると、母親は少し驚いたような顔で会釈を返したが、通りすぎると、小学生の私の腰までの高さしかない。
後ろを歩いていた友人が「こばんは」と挨拶をしてから、小さく高い悲鳴をあげて私の右腕にすがりついてきた。
「美恵ちゃんがあいさつするから、私もあいさつしちゃったよ」
振り返ると、親子はやはり小さな姿で道を上がっている。赤ん坊の首は石のように動かない。
私たちはお互いにもたれあい、腹を抱えて笑いながら、集落につながる坂を下っていった。

 この「石」の比喩が「庭石」に変わっていくのだが、すこし「技巧的」すぎはしないか。
 私がいいなあと思ったのは、

「美恵ちゃんがあいさつするから、私もあいさつしちゃったよ」

 この行のリアルさだ。「美恵ちゃんがあいさつするから」と「私もあいさつしちゃったよ」のあいだには、「つられて」というようなことばが省略されている。肉体が無意識に他人と接続し、動いてしまう。自分の肉体なのに、他人の「意思」に支配(?)されている。
 この自分の肉体と他人の肉体の融合のようなものがあって、「集落」がリアルになる。「私の右腕にすがりついてきた」も、さりげなく肉体の共有のようなものをつたえる。「集落」とは人間(肉体)が互いになじみながら生きている「場」である。そういうところでは、ことばが独特の動きをする。「伝承」が生まれる。つまり、次に書かれる「伝承」が自然につながる。牛が十二支を産むことも、生まれた動物が「庭石」のなかに入ってゆくということも「ありうること」に変えてしまう。この行がなかったら、「伝承」は単なる「空想」なってしまう、と思った。
 後半の僧侶が出てくる部分からはない方が、私は好きだ。「伝承」を「論理」で補足しようとしているようで、「しつこい」。「論理」によって詩の「不思議」が消えてしまう。後半は読まなかったことにする。

 文月は杉木澪「スプリング・フィールド」も選んでいる。その最終連が魅力的だ。


どう汚しても美しい手、
清新ないろのインクで
「新しい文字をつくろう」
と記した

 「汚す」と「美しい」の素早い結びつきが、そのまま「清新」だ。文月も同じ五行を引用して「秀逸」と批評している。
 文月に出会うことを待っている詩が、もっともっとあるのだろうなあ、と感じさせる。
現代詩手帖 2015年 07 月号 [雑誌]
クリエーター情報なし
思潮社

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