長田弘『最後の詩集』(5)(みすず書房、2015年07月01日発行)
「詩って何だと思う?」で、長田は
と「定義」している。これには、それに先立つ行がある。
目を覚ますのに必要なものは「武器をとれ」ではないというのはわかるが、詩が必要だと言われても、なかなか納得できない。
このあと、詩は、
とつづく。
私はここで、はっ、とする。「空の色を知るにも」の「知る」という「動詞」のつかい方に驚く。この「知る」は「円柱のある風景」でつかわれていた「知る」と同じだ。和辻哲郎の文章を引用し、そのことばに導かれてシチリアにやってきたと書いた後、
その「知った」は「発見した(あらためて気づいた)」という意味だった。
ここでも、「知る」は「発見する」という意味である。
でも、「空の色」って、「発見する」もの?
ふつうは、晴れ渡った青空だなあと思ったり、雨が降るかもしれないなあと思ったりする。いつも思っていることを繰り返す。「発見する」ということとは逆に、いままでの経験で「知っていること」を繰り返しているに過ぎない。「空の色」を「発見する」ということは、ない。「発見」しなくても「空の色」は「空の色」。
「発見する」というのは、どういうこと?
詩を読み返すと「目を覚ます」ということばがある。二回繰り返されている。「アラーム」も「目覚まし時計」のことだから、そこに「目を覚ます」が隠れている。
「発見する」とは「目を覚ます」ことなのだ。「目を覚ます」は「発見する」ということばの「比喩」なのだ。何かに衝撃を受けたとき、比喩的に「目を覚ます」という表現をつかう。衝撃を受け、それまで気づかなかったことに気がつく。それが「目を覚ます」。そして見落としていたものを見つけることが「発見する」。それは最初から存在した。気づかなかっただけだ。それを見つけるのが「発見する」であり、その「発見する」は、そこにそれがあったことを「知る」ということだ。
長田は「意識の事実/事件」を書いている。
詩はたしかに、それまで気づかなかった何かを発見し、驚くことだ。あ、そうか、これはそういうことばで言い表すことができるか、と驚くことだ。これこそが自分の言いたかったことだ、と感じることだ。詩は「目を覚ますこと」「発見すること」「新しく何かを知ること」だ。
そう定義した後で、長田は書いている。
「歩くこと」はなぜ必要なのか。それは、「他者」と出会うためだ。「ここ」にいるだけでは、誰にも出会えない。だれかに、あるいは何かに会って、そこで「目を覚ます」「発見する」「新しいことを知る」。それは、だから「ふたつ」と書かれているけれど、ほんとうは「ひとつ」のことでもある。出会いと発見。それが「歩く」ことであり、「詩」なのだ。
「詩は歩くこと」と言い直してもいいと思う。
これは、ただ街を歩いたときに目にする「風景」ではない。あらかじめ存在している風景ではない。「現れる」と、長田は書いている。長田の意識が目覚めたとき、街の風景のなかから(奥から)、「現れる」。その「現れる」ということを長田は発見している。「事件」にしている。「事実」にしている。
ことばを補っていうと、
はやりの「哲学用語(?)」で言うと、この「……となって現れる」というのは、「分節」されて、ということである。「世界」は「未分節」の状態で存在している。「混沌」としている。それを「分節」し、ととのえる。そのとき「現れる」という運動は「発見する」と言い換えることができる。また、そうやって「世界」をととのえることを「知る」とも言う。
これを「哲学用語」ではなく、「ドウダンツツジ」や「エニシダ」「光と水と風」「鳥」という具体的な存在を通して語るのが、詩だ。
*
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「詩って何だと思う?」で、長田は
目を覚ますのに、
必要なのは、詩だ。
と「定義」している。これには、それに先立つ行がある。
アラームalarm という英語は、
イタリア語のall'arme
(武器をとれ)からきたと
辞書にあるけれども、
夜明けに目を覚ますのに、
毎日、必要なものは、
アラーム(武器をとれ)ではない。
目を覚ますのに
必要なものは、詩だ。
目を覚ますのに必要なものは「武器をとれ」ではないというのはわかるが、詩が必要だと言われても、なかなか納得できない。
このあと、詩は、
顔を洗い、歯を磨くのに
必要なものは、詩だ。
窓を開け、空の色を知るにも
必要なのは、詩だ。
とつづく。
私はここで、はっ、とする。「空の色を知るにも」の「知る」という「動詞」のつかい方に驚く。この「知る」は「円柱のある風景」でつかわれていた「知る」と同じだ。和辻哲郎の文章を引用し、そのことばに導かれてシチリアにやってきたと書いた後、
ここにきて、知った。円柱たちの、
その粛然とした感じは、うつくしい建築が、
遺跡に遺した、プライドだった。
その「知った」は「発見した(あらためて気づいた)」という意味だった。
ここでも、「知る」は「発見する」という意味である。
でも、「空の色」って、「発見する」もの?
ふつうは、晴れ渡った青空だなあと思ったり、雨が降るかもしれないなあと思ったりする。いつも思っていることを繰り返す。「発見する」ということとは逆に、いままでの経験で「知っていること」を繰り返しているに過ぎない。「空の色」を「発見する」ということは、ない。「発見」しなくても「空の色」は「空の色」。
「発見する」というのは、どういうこと?
詩を読み返すと「目を覚ます」ということばがある。二回繰り返されている。「アラーム」も「目覚まし時計」のことだから、そこに「目を覚ます」が隠れている。
「発見する」とは「目を覚ます」ことなのだ。「目を覚ます」は「発見する」ということばの「比喩」なのだ。何かに衝撃を受けたとき、比喩的に「目を覚ます」という表現をつかう。衝撃を受け、それまで気づかなかったことに気がつく。それが「目を覚ます」。そして見落としていたものを見つけることが「発見する」。それは最初から存在した。気づかなかっただけだ。それを見つけるのが「発見する」であり、その「発見する」は、そこにそれがあったことを「知る」ということだ。
長田は「意識の事実/事件」を書いている。
詩はたしかに、それまで気づかなかった何かを発見し、驚くことだ。あ、そうか、これはそういうことばで言い表すことができるか、と驚くことだ。これこそが自分の言いたかったことだ、と感じることだ。詩は「目を覚ますこと」「発見すること」「新しく何かを知ること」だ。
そう定義した後で、長田は書いている。
人に必要となるものはふたつ、
歩くこと、そして詩だ。
「歩くこと」はなぜ必要なのか。それは、「他者」と出会うためだ。「ここ」にいるだけでは、誰にも出会えない。だれかに、あるいは何かに会って、そこで「目を覚ます」「発見する」「新しいことを知る」。それは、だから「ふたつ」と書かれているけれど、ほんとうは「ひとつ」のことでもある。出会いと発見。それが「歩く」ことであり、「詩」なのだ。
「詩は歩くこと」と言い直してもいいと思う。
きれいなドウダンツツジの
生け垣のつづく小道を抜けると、
エニシダの茂みが現れる。
光と水と風と、影のように
彼方へ飛び去ってゆく鳥たちと。
これは、ただ街を歩いたときに目にする「風景」ではない。あらかじめ存在している風景ではない。「現れる」と、長田は書いている。長田の意識が目覚めたとき、街の風景のなかから(奥から)、「現れる」。その「現れる」ということを長田は発見している。「事件」にしている。「事実」にしている。
ことばを補っていうと、
エニシダの茂みが(エニシダの茂みとなって)現れる。
光と水と風と、影のように
彼方へ飛び去ってゆく鳥たちと(なって現れる)。
はやりの「哲学用語(?)」で言うと、この「……となって現れる」というのは、「分節」されて、ということである。「世界」は「未分節」の状態で存在している。「混沌」としている。それを「分節」し、ととのえる。そのとき「現れる」という運動は「発見する」と言い換えることができる。また、そうやって「世界」をととのえることを「知る」とも言う。
これを「哲学用語」ではなく、「ドウダンツツジ」や「エニシダ」「光と水と風」「鳥」という具体的な存在を通して語るのが、詩だ。
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