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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

西村勝『シチリアの少女』

2017-01-26 09:32:34 | 詩集
西村勝『シチリアの少女』(ふらんす堂、2016年12月12日発行)

 西村勝『シチリアの少女』は世界一周クルーズの旅日記詩集。神戸を4月13日に出て、横浜へ7月25日に帰って来ている。うーん、豪華だ。
 「日の出」はスエズ運河を通過するときの詩。

おお シナイ半島の日の出だ
稜線は真っ赤になり
やがて大きな火の玉が
ゆっくり顔を現わし
甲板は息をのんで静まる
泣き出す者もいる
手を合わせる者もいる
僕はどんなことばも出て来ずに
ほんとうに困ってしまった

 詩集の中では、ここがいちばん印象に残った。「どんなことばも出て来ずに」がいい。他の部分では、ことばが出すぎている。
 詩は、「ことばを出す」ということとは相いれないのだろう。自分が持っていることば、自分のなかにあることばを「出す」かぎりは、それは詩ではない。
 詩は、ことばを「生む」、ことばを新しく「つくる」こと。
 「ほんとうに困ってしまった」と西村は素直に書いているが、「困る」瞬間が詩。作者が「困る」とき、読者は一緒に「困る」。それが楽しい。

 表題作の「シチリアの少女」はシチリアであったアコーディオンを弾いている少女のことを書いている。

彼女は学校帰りにひとりであの路地で
アコーディオンを弾いていることだろう
シラクーサに行くことがあったら
オルティジア島の旧市街を歩いてみたまえ
アポロ寺院からマティオッテ通りへ入り ちょっと脇道へ入るんだ
脇道の名前だって?
しょうがないなあ 特別に教えてあげよう
CAVOUR通りという路地だ
じっと耳をすませていれば
どこからかすてきなアコーディオンが聞こえてくるだろう

 ことばの動きが「きざっぽい」。きざでもいいのだが、そのきざが「流通言語」になっている。西村が「生んだ」ことばではないし、「つくった」ことばでもない。西村のなかに無意識に溜まっていたことばが「出て来ている」。
シチリアの少女
クリエーター情報なし
ふらんす堂

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