岩佐なを「銅版画苦楽部」、廿楽順治「ライトバース」(「出来事」6、2010年夏発行)
岩佐なを「銅版画苦楽部」を読みながら、うーん、まずいなあ、と思う。何がまずいかというと……気持ち悪くない、気持ちがいい、好きなのである。
これは、まずい。
私は岩佐なをが嫌いであった。大嫌いであった。ともかく気持ちが悪い。気持ちが悪い、気持ちが悪い、と書くことで、なんとなく私自身の平穏を保っていたところがある。気分が滅入り、ひとを罵倒してすっきりしたいと思ったとき、そうだ、岩佐なをの詩について、気持ちが悪い、と書けばいいんだ--ということが、できなくなった。
岩佐なをがかわったのか、私がかわったのか。よくわからないが、まずい。
ちょっとまずい、を通り越してしまった。
何かが変である。
「銅版画苦楽部」は右ページに詩、左ページに版画という構成で組まれているが、その「備考②(ワラビ発見)」を読みながら、ほんとうに、変だ。どうしてこんなふうになってしまったのだろうと思った。
左のページには、ネコが描かれている。これが、なんとも不思議。私はネコを直視できない。直視できるのは、ピカソの描いたネコ、右目と左目が違っていて、片方の目でテーブルの上の魚を狙い、片方の目で人間を見つめているネコの絵だけだと思っていた。そのピカソの絵ほどではないのだけれど、なんとなく岩佐のネコの版画を見つめてしまって、黒くてよく見えない口元をじーっと見てしまったのである。ネコ恐怖症の私が、である。これはおかしい。私は病気かもしれない、熱があるかもしれない……。でなければ、そこにはネコではなく、「他人」が描かれているのかもしれない。
詩は、というと……。
何が書いてあるかというと、何も書いてない。いや、ひとつだけ、書いてあるものがある。
口調である。
それも、自分をみせない口調というか、自分を他人にしてしまう口調である。いや、そうではなくて、他人と他人を平気で(?)つなぐ口調である。
岩佐には岩佐のいいたいことがあり、岩佐自身の声というものももちろんあるのだろうけれど、それは、まあ、出さない。他人を次々に登場させ、そこに「世間」というものを浮かび上がらせる。岩佐の「肉体」ではなく、「世間」の肉体を浮かび上がらせる。
「世間」というのは、どうにもうさんくさいものであるが、岩佐はそれと正面きって対決する(向き合う--そして、自分を変える)のではなく、「世間」と「世間」をつっつきあわせる。
結果的に、そういうものを平然と見ている岩佐という「肉体」を浮かびひ上がらせるのだけれど、そのときの落ち着きはらった感じが、たたいても壊れない感じで、それがいいのだ。その感じこそ、「世間」であり「他人」だ。
昔は(とは、いったいいつのころだろう--私は30年ほど岩佐の詩を読んでいると思うけれど……)、たたくと、いやたたかなくても、そこから体液のようなものがあふれてきて、それが気持ち悪かったが、いまは、その体液のようなものが「他人」になってしまっていて、それがおもしろい。
あ、なんのことかわからないね、これでは。
たとえば、
この1行。ワラビの描写である。土のなかから出てきたワラビ。その形は?(クエスチョンマーク)に似ている。これを自分の考えだとは言わずに、「あるモノ」の主張(云う)だと突き放す。そうすると、その反動で、それまで書いてきたことは「わたし」の考えでありながら、相対的に「他人」の考えになってしまう。「わたし」から吹っ切れて、何か、客観的な感じになる。いろんな考えが、それぞれ「あるモノ」がいったことのように、独立した「肉体」をもってしまう。
そして、そこにはだれもが知っているランボーの「肉体」さえ登場してくる。
その瞬間。
ワラビはハテナ。ハテナは疑問。疑問が伸びる(成長する)と、そこに必然的に「答え」のようなものが引き出されてくる。それは、実はどこかにあるのではなく、「疑問」そのもののなかにある。「疑問(ハテナ)」のなかには、答えが「五分(の魂)」も含まれている。答えは、疑問をもった人間がみつけだすものである。疑問をもたない人間は答えも「発見」しない。答えは最初に「疑問」をもった人間に「与えられる」。
という「意味・内容」が吹き飛んでしまう。
そんなものよりも魅力的なのは「口調」である。
だったかな? その「口調」が
という書かれなかった「意味」を、同じ次元にしてしまうことも可能なのだけれど、(そんなふうに書き直すことも可能なのだけれど)、そうしない。
違った「口調」のまま、そこに併存させる。
きっと「世間」とは「他人」が同居する状態なのだ。岩佐は「他人」として自分を「他人」のなかで同居させる力を確実に自分のものにしているのだ。
これは、気持ち悪がることはできないなあ。
*
廿楽順治「ライトバース」にも「他人」が出てくる。「他人」の「声」が出てくる。「角」という作品。(作品は行末が下にそろえられているのだけれど、引用では頭をそろえた形にしている。)
この「おぼえてられません」、「他人」は他人のまま、けっして「わたし」の内部に取り入れ、引き受けるようなことはしません。「わたし」の「肉体」を変えるようなことはしません、ということなのだ。
「あるモノ」は「おぼえてろよ」と言う。けれど「おぼえてられませんな」と「他人」のままにしておくのである。
それが「世間」だ。
「世間」は、ことばにしないときは「世間」のままだけれど、ことばにすると「他人」があふれる詩になる。「個人」とは無関係な、さっぱりした運動になる。

岩佐なを「銅版画苦楽部」を読みながら、うーん、まずいなあ、と思う。何がまずいかというと……気持ち悪くない、気持ちがいい、好きなのである。
これは、まずい。
私は岩佐なをが嫌いであった。大嫌いであった。ともかく気持ちが悪い。気持ちが悪い、気持ちが悪い、と書くことで、なんとなく私自身の平穏を保っていたところがある。気分が滅入り、ひとを罵倒してすっきりしたいと思ったとき、そうだ、岩佐なをの詩について、気持ちが悪い、と書けばいいんだ--ということが、できなくなった。
岩佐なをがかわったのか、私がかわったのか。よくわからないが、まずい。
ちょっとまずい、を通り越してしまった。
何かが変である。
「銅版画苦楽部」は右ページに詩、左ページに版画という構成で組まれているが、その「備考②(ワラビ発見)」を読みながら、ほんとうに、変だ。どうしてこんなふうになってしまったのだろうと思った。
左のページには、ネコが描かれている。これが、なんとも不思議。私はネコを直視できない。直視できるのは、ピカソの描いたネコ、右目と左目が違っていて、片方の目でテーブルの上の魚を狙い、片方の目で人間を見つめているネコの絵だけだと思っていた。そのピカソの絵ほどではないのだけれど、なんとなく岩佐のネコの版画を見つめてしまって、黒くてよく見えない口元をじーっと見てしまったのである。ネコ恐怖症の私が、である。これはおかしい。私は病気かもしれない、熱があるかもしれない……。でなければ、そこにはネコではなく、「他人」が描かれているのかもしれない。
詩は、というと……。
五分の魂とはこれかと思う
しかしワラビだそうだ
土のなかからスルスル出てきやがって
五分どころかもっと伸びた
あるモノはこれはハテナだと云う
ワラビもハテナも似たようで
似て非なるものだ
兎に角最初に発見したものに
与えられるそうだ
欲しくないんだ
タマシイもハテナもワラビも
ウミニトケルタイヨウモ
モチロンエイエンモ
何が書いてあるかというと、何も書いてない。いや、ひとつだけ、書いてあるものがある。
口調である。
それも、自分をみせない口調というか、自分を他人にしてしまう口調である。いや、そうではなくて、他人と他人を平気で(?)つなぐ口調である。
岩佐には岩佐のいいたいことがあり、岩佐自身の声というものももちろんあるのだろうけれど、それは、まあ、出さない。他人を次々に登場させ、そこに「世間」というものを浮かび上がらせる。岩佐の「肉体」ではなく、「世間」の肉体を浮かび上がらせる。
「世間」というのは、どうにもうさんくさいものであるが、岩佐はそれと正面きって対決する(向き合う--そして、自分を変える)のではなく、「世間」と「世間」をつっつきあわせる。
結果的に、そういうものを平然と見ている岩佐という「肉体」を浮かびひ上がらせるのだけれど、そのときの落ち着きはらった感じが、たたいても壊れない感じで、それがいいのだ。その感じこそ、「世間」であり「他人」だ。
昔は(とは、いったいいつのころだろう--私は30年ほど岩佐の詩を読んでいると思うけれど……)、たたくと、いやたたかなくても、そこから体液のようなものがあふれてきて、それが気持ち悪かったが、いまは、その体液のようなものが「他人」になってしまっていて、それがおもしろい。
あ、なんのことかわからないね、これでは。
たとえば、
あるモノはこれはハテナだと云う
この1行。ワラビの描写である。土のなかから出てきたワラビ。その形は?(クエスチョンマーク)に似ている。これを自分の考えだとは言わずに、「あるモノ」の主張(云う)だと突き放す。そうすると、その反動で、それまで書いてきたことは「わたし」の考えでありながら、相対的に「他人」の考えになってしまう。「わたし」から吹っ切れて、何か、客観的な感じになる。いろんな考えが、それぞれ「あるモノ」がいったことのように、独立した「肉体」をもってしまう。
そして、そこにはだれもが知っているランボーの「肉体」さえ登場してくる。
その瞬間。
ワラビはハテナ。ハテナは疑問。疑問が伸びる(成長する)と、そこに必然的に「答え」のようなものが引き出されてくる。それは、実はどこかにあるのではなく、「疑問」そのもののなかにある。「疑問(ハテナ)」のなかには、答えが「五分(の魂)」も含まれている。答えは、疑問をもった人間がみつけだすものである。疑問をもたない人間は答えも「発見」しない。答えは最初に「疑問」をもった人間に「与えられる」。
という「意味・内容」が吹き飛んでしまう。
そんなものよりも魅力的なのは「口調」である。
見つけた
何を
永遠を
海に溶け込んだ太陽を
だったかな? その「口調」が
見つけた
何を
ワラビを
自然に溶け込んだハテナを
という書かれなかった「意味」を、同じ次元にしてしまうことも可能なのだけれど、(そんなふうに書き直すことも可能なのだけれど)、そうしない。
違った「口調」のまま、そこに併存させる。
きっと「世間」とは「他人」が同居する状態なのだ。岩佐は「他人」として自分を「他人」のなかで同居させる力を確実に自分のものにしているのだ。
これは、気持ち悪がることはできないなあ。
*
廿楽順治「ライトバース」にも「他人」が出てくる。「他人」の「声」が出てくる。「角」という作品。(作品は行末が下にそろえられているのだけれど、引用では頭をそろえた形にしている。)
おぼえてろよ。
おぼえてられませんな。
この「おぼえてられません」、「他人」は他人のまま、けっして「わたし」の内部に取り入れ、引き受けるようなことはしません。「わたし」の「肉体」を変えるようなことはしません、ということなのだ。
「あるモノ」は「おぼえてろよ」と言う。けれど「おぼえてられませんな」と「他人」のままにしておくのである。
それが「世間」だ。
「世間」は、ことばにしないときは「世間」のままだけれど、ことばにすると「他人」があふれる詩になる。「個人」とは無関係な、さっぱりした運動になる。
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